今日、彰が修学旅行を終えて帰ってくる。そんなの、別になんてことないのに、わたしはなぜか落ち着かなかった。

馬鹿。わたしが落ち着かないでどうすんのよ。彰がわたしにしたキスはなんでもないって結論に達したんだから、いつもどおりでいいはずじゃないの。
一人きりのリビングで缶ビール片手にテレビ画面を見つめながら、わたしは自分にそう言い聞かせた。
やがてテレビ画面は夕方のニュースを読み上げるキャスターを映し出す。それと同時に、玄関の方で鍵を差し込む音がして、わたしは思わず体をビクリと反応させてしまった。
鍵がガチャガチャと音を起たせ、ドアがギィと鈍い音を伴いながら開く。
テレビ画面に向けていた視線を玄関へ向ける。そこには相変わらず頭をツンツン立たせた彰が立っていた。

「おっ・・おかえり」

いつもどおりに言おう。そう思いながら発した言葉は明らかに不自然だった。
なにどもってるんだ、わたし。かっこ悪。
そんなわたしの心中なんかまったく察しないような顔で、彰は言う。

「ただいま」

ニコリと微笑んだ彰の表情。

「彰、あんた夕食は?」

「食べる食べる。昼からなんも食ってないんだよね、俺」

大きなバッグを床にどさりと置き、テーブルに腰を降ろした彰。
彼からは旅行帰り独特の、家の中に漂っている空気とはまた別の匂いがした。

「どうしたの華梨

「な・・なにが?」

「だって俺のことすげーみつめてるからさ」

やだな。わたし、彰のこと見つめてたりしたんだろうか。

「やっぱり俺が居なくて寂しかった?」

口端を持ち上げて彰は言った。

「バカね。たかが4日5日居なかっただけで寂しいわけないでしょ」

そう言ってわたしは、彰の頭を軽く叩く。彰は叩かれた頭を擦りながら、眉を下げて笑った。
あぁ、よかった。いつもと全く変わらない彰だ。
彰にわからないところでほっと安堵の溜息を吐き、キッチンに向かった。
彰がいつもと変わらないことが、なぜこんなにも安心したのか。その答を、心の片隅に追いやったまま。





「あのさ、華梨

「なによ」

旅行から帰ったばかりの彰のために、リクエストされた肉じゃがを夕飯にした。
リクエストしといて文句でも言おうものならどうしてやろうか、とわたしは彰をギロリと睨んだ。

「どうだった?」

「どうって・・・なにが?」

「俺がいない間」

箸の動きを止めて、彰はわたしを見た。

「別に。変わった事も無かったし」

「そっか」

「あんたこそ旅行どうだったのよ」

数時間前に帰宅した彰からは、お土産をもらってないばかりか思い出話さえ聞いてない。
青春真っ盛りな年ごろの旅行ってのは、なにをやっても楽しくて楽しくて仕方がないはずで、話したい出来事だってたくさんあるはずなんだから。

「あんまり楽しくなかったかも」

「えぇ?なんで?」

華梨が居なかったから」

その言葉を聞き、わたしは皿の上に載った肉じゃがから、真正面に座る彰へと視線を移した。
いつもみたいにへらっと笑っているのかと思いきや、彰は真剣な顔つきでわたしを見つめている。

「・・・な」

なに言ってんのよ。そう言おうと口を開いたその時だった。テーブルの端に置かれたケータイが、わたしのお気に入りの曲を流す。
チカチカ光るランプ。ディスプレイには久しぶりに見る女友達の名前が表示されていた。

「長くなると思うから先に食べてて」

肉じゃがを口に運ぶことを止めていた彰にそう声を掛けた。時たまにしか話さない彼女との電話は、いつも長電話になってしまうから。
自分の部屋のドアを開け、素晴らしいタイミングで電話を鳴らしてくれた友人に感謝しながら、通話ボタンを押した。




この家で暮らし始めて半年以上が経った。その間、わたしと彰の間には何度も沈黙がやってきただろう。
半年同じ家に居るんだから、沈黙が無いなんてほうが不自然なんだけど。

人なら誰だって、他人との間に流れる沈黙を気まずく感じて、無理やりにでも話をつなげようとすることがあると思う。
ガサツな所があるわたしだってそれなりに社会に出てるわけだし、外に出て人に会えば、沈黙が訪れないように気を遣ってみたりもする。
けれど彰と二人で居るこの部屋に沈黙がやってきても、無理して話題を探したりしたことがない。
それはきっと、彰との間に流れる沈黙が、苦痛ではなかったから。気まずくなんてなかったからだ。
思えば彰と同じ部屋に暮らし始めた最初の頃から、沈黙を気まずいと感じたことなんて無かったような気がする。
だけど・・・


「今日学校でなんかあった?」

「特にないかな」

「・・・あ、そ」

夕食もシャワーも済ませ、リビングでわたしのお気に入りの俳優が出ているドラマを見ていた。
本来なら、テレビ画面に食いついて俳優の顔を見つめているはずなんだけど、わたしはどうしてもドラマの内容に集中出来なかった。

「・・・・」

「・・・・」

彰は黙ったままテレビを見つめている。わたしも黙ってテレビを見つめる。
テレビを見てるんだから、黙ってるのは極普通のことだし、今までのわたしならこの空間を‘気まずい’だとか、‘重苦しい’なんて感じなかった。
だけどわたしは今、彰と二人きりのこの部屋にやってくる沈黙を怖れてる。

華梨

テレビに視線を向けたまま、彰がわたしを呼ぶ。
その声に、わたしは思わず体を固くしてしまった。

「・・・な、なに?」

「チャンネル変えてもいい?」

気がつけばドラマは来週の予告をしている。しまった・・・。上の空でぜんぜん見れてなかったんだ。
妙に緊張してしまっていたのがなんだかあほらしい。

「・・・いーよ、好きなとこに変えて」

「うん」

彰はリモコンを手に取ると、上の方から順番にボタンを押した。次々変わるテレビ画面を見つめながら、彰に気づかれないよう小さくため息を吐く。

なんだか疲れてしまった。家にいるのに緊張して、堅くなって、馬鹿みたい。
ここまでわたしを疲労させた原因である目の前の少年を見つめた。彰は大きな欠伸をしながら、大きな手でリモコンを握り、テレビ画面を次々に変えていく。
彰の欠伸が伝染して、わたしは大きく口を開ける。それを見ていた彰はわたしと視線を合わせると、無言で小さく微笑む。
彰と視線を合わせているのが何だか気まずくて、窓の外に目を向ける。

「雨ひどいな」

わたしが口に出すより先に、彰がポツリと呟いた。
さっきまではポツポツとした小さな雨粒が、今はもう激しい音をたてて窓に打ち付けている。

「・・・そういえば台風接近中なんだっけ」

「さっきから雷の音とか聞こえてるよ?」

「ドラマに夢中で聞こえてなかったのよ」

本当はドラマさえ頭に入ってなかったのに。

ゴーゴーと唸る風の音。<青白い光と段々大きくなる雷。
わたしたちは暫く黙ったままで、なにをするでもなく嵐の音を聞いていた。
海もだいぶ荒れてるだろうね。そう声を掛けようと彰を見ると、彼はわたしを見つめていた。

華梨、俺さ・・・」

彰が口を開いたその瞬間だった。
窓の外がピカッと光り、地響きみたいな荒い音がして、部屋の中が真っ暗になった。

「なに!これ!?」

真っ暗になった部屋に、わけがわからずに焦るわたしの声が響く。

「雷落ちたのかな」

明かりが消えるという非常事態にも関わらず、彰の声はいつもの呑気そうな響きだった。
暗がりで姿は捉えられないけど、きっといつもどおりの、少し困ったように眉を下げた笑い方をしてるんだろうな。

「わたし、ブレーカー見てくる」

「俺行くよ?」

立ち上がるのが彰と同じタイミングだったのだろう。椅子を引く音が同時にした。

「いいよ、玄関なんてすぐそこしゃない」

そう言ってはみたものの、明かりの無い部屋からブレーカーのある玄関までの道のりは、明かりが点いている時の数倍も距離があるだろう。
生まれたての子馬みたいな足取りで、テーブルの淵を握りながらゆっくり進む。

華梨、大丈夫?」

「大丈夫よ、このくらい」

何も見えない部屋の中を進む不安さを隠すように強勢を張る。
言ったそばからテーブルの脚に自分の足を引っかけてしまった。

「イタっ!」

「ほら、だから言ったろ?」

「なによ、また人を小バカにして」

ぶつけた足が痛くて半分涙目になりながら、彰の声がした方を見遣る。
窓の外の青白い光が一瞬だけ彰の表情を照らしだす。
彰は微笑みながらわたしを見ていた。

再び暗闇に包まれたその瞬間。わたしは急に身動きが取れなくなった。

背中に回された大きな手。
肌に伝わる熱い体温。
耳の中に響く心臓のリズム。
彰に抱きすくめられていると、そう気がつくまでにだいぶ時間が掛かってしまった。


「ちょ・・・、なにしてるのよ」

華梨を抱きしめてる」

頭上から降ってくる声は、間違いなく彰のものだ。

「も・・・ふざけないでよ・・・。離して」

「・・・離したくないって言ったらどうする?」

少しだけ暗がりに慣れた目は、間近にある彰の顔を捉える事ができた。
ふざけたセリフに似つかわしくない真面目な表情でわたしを見つめるその顔に、心臓が大きな音をたてた。

何か言わなくちゃ。そう思い、口を開いた時だった。暗闇だった室内に明かりが戻り、わたしは眩しくて目を細める。
それと同時に、彰はわたしを腕の中から解放した。
どんな顔をして彰を見ればいいのかわからないわたしに、彰は言う。

「冗談だよ」

彰を見上げると、ニコリと笑っていた。

「よかったね、停電直って」

「・・・うん」

「俺もう寝ようかな。華梨は?」

「あぁ・・・わたしも寝るわ」

「うん。おやすみ」

それだけ言って、自分の部屋のドアを閉める彰の背中を見送って、わたしも部屋のドアノブを握った。
あぁ・・・ヤバイ。部屋に入り、ドアを閉めたわたしは、心の中で呟いた。
何がヤバイって、わたしを抱きしめるようなマネをした彰じゃなくて、抱きしめられて大きな音をたてたわたしの心臓がヤバイんだ。
ぎゅうっと縮まる心臓をなんとか緩めたくて、大きく息を吐いた。

タツヤの声が聞きたい。なんでもない会話でいい。少しでもいいからあの低い声が聞きたい。そうしたらきっと、心臓も緩まる気がする。
ベッドサイドのテーブルに置いてあった携帯を手に取り、すがるような思いでタツヤの番号を押した。
繰りかえされる呼び出し音に、段々と落胆させられながら、それでもわたしはタツヤの声が聞こえてくるのを待っていた。
この時間、タツヤはもう寝てしまったのかもしれないな。
そう思った時、繰り返されていた呼び出し音が中途半端なところで止んだ。

もしもしタツヤ?もしかして起しちゃった?
頭に浮かんだセリフを口にしようと、口を開いたのと同時に、向こうから声が聞こえた。

『もしもし?』

わたしは思わず、通話を切った。聞こえてきた声は聞きなれたタツヤの声とは全く別物の、細くて高い女の人の声だったから。
切ってから数秒。間違い電話をしてしまったのはわたしの方なのに、謝りもせず切るなんて、なんて失礼だったんだろう。
そう思いながら携帯のディスプレイを見た。
そこに映っていたのは発信履歴と、‘タツヤ’の文字。

彰の行動といい、今の電話といい、どうして今日はこんなにもわけのわからないことばかりが続くんだろう。
わたしは再び携帯の画面を覗き込んだ。
スクリーンセーバーが働いた小さな画面は、今はもう何も映さず、真っ暗だった。
真っ暗で、静かだった。


 back