わたしは、彰との間に流れる沈黙が怖かった。不意にやってくるその瞬間、明らかに今までとは違う空気が流れる。
だけど、必死で気付かないふりをしてた。気付いてしまえば、わたしと彰は今までどおりではいられなくなってしまうから。
そこで何かが終わってしまうと、そうわかっていたから。

なにやってるんだろう、わたし。これじゃあまるで、男女の駆け引きだ。
高校生相手に、馬鹿みたい。





あの日の夜・・・停電した夜以来、わたしはタツヤに電話を掛けていない。タツヤからも電話は来ない。
どうして掛けてこないの?また仕事が立て込んでるんだろうか。それとも、わたしに電話を掛けられない理由でもあるんだろうか。
ここまで頭を巡らせて、わたしはその先へと考えを巡らす事を辞めた。
先を考えることを恐れたのか、なぜだかぼんやりする頭ではその先へと考えを巡らすことが出来なかったのか。
後者であってほしい。そう思いながら、わたしはゆっくり目を開けた。

カーテンを閉めた窓からは、朝の光が差し込んでいる。眩しさに目を細めながら枕もとの目覚まし時計に目をやると、ベルが鳴るように設定した時刻の30分も前だった。
ベットに仰向けになったまま、わたしは再び目を閉じて、フー、と小さく息を漏らす。ぼんやりするうえに、目覚めたてからズキズキと痛む頭。睡眠不足と、昨日飲んだアルコールのせいかもしれない。
もうちょっと眠りたい気もするけど、寝過してしまうこともありえる。あわてて会社に行き、遅刻なんかするよりは起きたほうがマシかな。そう思い、ゆっくりと起き上った。体を少し動かしただけで痛む頭がうっとおしい。


「あれ?華梨早いね」

自室を出るなり声がして、痛みに耐えられず下げていた頭を上げると、牛乳をなみなみと注いだグラスを手に持つ彰が、キッチンに立っていた。

「・・・あんたこそ、なんでそんな早いのよ」

けだるい体では立っていることが辛くて、椅子に腰を降ろしながら彰に問う。
すると彼は「たまにはね」と、眉を下げて笑いながら答えた。

「・・・ねぇ、頭痛薬あったっけ?」

「あったかな。華梨、頭痛いの?」

「・・・うん・・・」

それだけ答えて、テーブルにうつ伏せになった。
頭を持ち上げているだけで頭がズキズキと痛いし、その重みを支えることが出来ない。

「・・・大丈夫?」

そう声が聞こえ、首だけを動かし真横を見ると、彰の顔のどアップだった。
彼は床に膝をつき、わたしの顔を心配そうな顔つきで覗いている。

「平気よ」

「平気そうにはみえないけどな」

心配をかけまいとして発した言葉をキッパリ否定されたわたしは、何を言っても無駄だと判断して、再び黙り込む。
暫くじっと見つめていた彰が、不意に手を伸ばし、わたしの額に当てた。

「うわ、熱い」

ちょっとびっくりしたような顔をして、彰は言う。

華梨熱あるよ、これ」

「・・・ないわよ。自分でわかるもん」

そう言ってみたものの、体がだるく、動きひとつとるのも一苦労な状態は、『元気』といえるようなものではないだろう。
だけどわたしには仕事がある。たかが熱くらいで休むわけにはいかない。熱があるだなんて、絶対に認めたくない。

「・・・そろそろ支度しなきゃ」

自分に言い聞かせるように呟いて、ゆっくり立ち上がる。・・・が、立ち上がったその瞬間、体がバランスをとれなくなり、思いっきりよろけてしまった。

「ほら、華梨やっぱり熱あるよ。無理しない方がいいって」

倒れかけたわたしの両肩を支え、わたしの顔を見下ろしながら彰が言った。
もしもわたしの体がいつもどうりの良好そのものだったとしたら、今のこの状況・・・彰との距離の近さが抱きしめられたあの日の夜をフラッシュバックさせてたに違いないだろうけど、幸運にも、現在はそんなことが出来ないくらいに弱っているらしい。

「今日は仕事休んだ方がいいよ」

「・・・だけど・・・」

彰に支えられながら、一歩一歩ゆっくり自室に向かいながらも、『仕事を休む』という提案だけは拒否する。

「意地っ張りだなぁ」

「・・・うるさい」

さも可笑しそうに笑いながら、わたしの部屋のドアを開ける彰。
部屋に入るなり、わたしはベッドに腰かけてしまった。
やっぱり辛いかもしれない・・・。ベッドに横になると楽チンで、再び起き上がることができなくなりそうだ。あぁ、でもが仕事があるのに・・・。
横たわったまま、心のなかで激しい葛藤を繰り広げるわたしを尻目に、彰はサイドテーブルに置いてあった携帯に手を伸ばしていた。
なにしてるのよ、と、そう口に出すより早く、彰の方が口を開いた。

華梨の会社ってこれ?」

開いた携帯の画面を見せる彰。
その画面は電話帳で、確かにわたしの勤務先の名前と電話番号が表示されていた。

「・・・そうだけど・・・」

それだけ聞くと、彰はニコリと笑って携帯の通話ボタンを押した。
ぼんやりする頭では彰の行動の意味なんてさっぱり理解できなくて、携帯を耳に押し当てる彰の姿をただ見つめていた。
少したって、彰が電話の向こうの相手に会社名を開いて確認し、ちらりと視線をわたしに向けた。

「俺、小澤華梨の弟です。今日、姉が高熱を出しまして・・・」

ここでやっと彰の行動の意味を理解する。
やがて通話を終えた彰は、携帯を元あった場所に戻して、「ゆっくり休んで下さい、だって」と、電話の向こうの相手からの言葉をわたしに伝えた。

「・・・わたし、弟なんていないんですけど」

「じゃあ『彼氏です』って言った方がよかったかな」

「・・・バカ」

彰はフッと笑いを漏らした。わたしもつられて、小さく笑う。
わたしに弟がいないことを知っている人が、会社に何人いたっけなぁ・・・。そんなことを考えているわたしに、彰が言った。

「俺そろそろ学校いくよ」

「・・・あぁ、うん。いってらっしゃい」

「なんか欲しいもんとか食べたいもんある?」

「別にないかな・・・。・・・自分の事は自分で出来るから、あんたはしっかりと勉強してきなさいよ」

わたしがそう言うと、彰は眉毛を下げ、困ったように笑った。

華梨は熱があっても華梨だなぁ」

「・・・悪かったわね」

「悪くないよ。俺、華梨のそういうトコ好きだから」

じゃあいってくるよ。そう言い残し、彰は部屋を出て行った。

一人きりになった部屋で、目を閉じることもせず、ただ天井を見つめた。
頭の中に蘇るのは、抱きしめられた時の彰の腕と、タツヤの電話から聞こえた『もしもし』という女の声。
これだから何もしてない時間って嫌い。考えたくないことも、考えなくていいことも考えちゃうから。
動かすことが面倒でしかたない重たい腕をめいっぱい伸ばし、置きっぱなしだった携帯を手に取る。
電話・・・は、タツヤも仕事中だろうから、やめておこう。メール作成画面を開き、『久しぶりに熱なんか出ちゃった』と、それだけの文面を長い時間掛けて打った。
お見舞いに来てくれることはないかもしれないけど、電話くらいしてほしい。そんな期待がたっぷりこもった、たった1文のメールが送信される画面を見つめながら、わたしはゆっくり眠りについた。





「仙道!お前どこいくんだよ!」

放課後の昇降口。授業が終わって間もないのに、そこには大勢の生徒がいた。
たいがいは帰宅部で、残りは部活が週に数回しかない文化部。さらに俺みたいな、部活があるけど帰りたい奴。ここにいる生徒たちはこのどれかに属するはずだ。

「どこって、帰るんだよ」

靴を履き替える俺を見つけた越野は、他の生徒なんかに構わず大声を張り上げた。

「『帰るんだよ』じゃねぇよ。今日も練習あるんだからな」

こんなんでキャプテンだなんて信じらんねぇ、とかなんとか呟く越野。

「悪いな。今日熱あるんだよ」

「は?」

お前が熱?信じらんねぇ。越野の顔にははっきりそうかいてあった。

「俺じゃないよ。華梨が熱だしてさ。仕事も休んでるんだ」

「・・・ふーん」

一緒に住んでる人間が病気。さすがの越野もこれには強く言って出れないらしい。

「監督には上手く言っといて」

「え?・・・待てよ仙道・・・」

呼び止める越野を置き去りにして、俺は家路を急いだ。

『自分の事は自分で出来るから』
華梨はあんな風に言ってたけど、立つのもやっとな体で、何をどうやるっていうんだろう。
ほんと、意地っ張りだよなぁ・・・。
そう思いながらも、憎めない。寧ろそれが美点であるかのように思える俺は、そうとう彼女に惚れてるか、凄く馬鹿かのどちらかだ。
どっちかなんて、もう解りきったことだけど。

近所のコンビニに寄り、ポカリとヨーグルト、カットフルーツを買ってった。
昔俺が熱を出した時に母親がしてくれたことを思い出しながら、まさか自分がやる番が来るなんてなぁ・・・と、思った。
だけど、決して苦じゃない。
華梨の為に何かしたいと、強く思うんだ。

家の玄関のドアに鍵を差し、小さな声で「ただいま」と言った。もしかしたら華梨は寝てるかもしれない。
思った通り、中からは何の返事もない。リビングも、まるで俺しかいないような静けさだった。

華梨の部屋のドアを見つめる。

華梨腹へってない?」

キッチンは、朝俺が部屋を出た時となんら変わりはない。
おそらく彼女は一日中なにも口にしてないんだろう。そんな彼女に、ドア越しに問いかける。
中からは声どころか、物音ひとつ聞こえてこない。

華梨?入るよ?」

一応断りを入れて、ドアノブをゆっくりと回す。
中に入ると、ベッドの中で規則正しい寝息を漏らす華梨の姿が見えた。
俺はベッドの横に腰を下ろし、静かな部屋を見回す。
華梨の部屋に入るのは、そういえば今朝が初めてだった。
彼女の具合の悪さに気を取られて、部屋なんて見る余裕なかったからなぁ。

華梨の部屋は、凄くシンプルだった。
さすがにぬいぐるみが置いてある・・・とまではいかなくても、もうちょっと女らしい部屋でもいいんじゃないかと思わせるくらいに、実に男らしい部屋だと思った。こんなこと華梨に言ったら、『男らしくて悪かったわね』、とでも返ってきそうだな。
思わず浮かんだ華梨の表情に苦笑いを漏らし、ベッドで横になる現実の彼女に目を向ける。
伏せられた目に、艶やかで長い睫毛。熱で赤い頬。ふっくらした唇。手元には、携帯が握られている。
携帯を握ったまんま寝るなんて、器用だなぁ。そう思いながら、彼女を起こさないよう注意しながら、手元からそっと携帯を抜き取る。
不意に見えたのは、送信済みメールを確認する画面だった。
送り相手は華梨の彼氏。

わかっちゃいたことだけど、華梨は俺なんか眼中に無い。それがこんなにキツイのは、正直予想外だった。
華梨は相変わらず、高熱があるにも関わらず、穏やかに眠っている。

あれ以来・・・俺が華梨にキスした日以来、この部屋に沈黙がやってくると同時に、緊張した空気も漂っていた。
俺が発したものなのか、彼女が漂わせるものなのかは解らない。
華梨と俺が恐れているものは一緒だ。
俺の一言で、今までどおりにはいられなくなること。今までみたいに、楽しく過ごすことが出来なくなること。
それが、凄く怖いんだ。

「・・・だけど、どうしようもないんだ」

眠っている華梨にそう声を掛けた。
俺って、こんな無謀だったかなぁ・・・。





「・・・なにこれ?」

「なにって・・・お粥だよ」

どうしてそんなこと聞くんだろう。そう言いたげに困った顔をした彰。
わたしは視線をテーブルの上に乗っている‘それ’に落とし、ひとつ溜息をついた。

「あのねぇ・・・。お粥っていうのはこんな黒い色してないでしょ、普通」

「え?そうなの?」

「・・・彰、あんたお粥食べた事ないわけ?」

「あるよ、お粥くらい」

「・・・あっそ」

食べたことがあっても作ったことないのがはっきりとわかる力作ね・・・。わたしは大きくため息を吐いた。
タツヤへのメールを送ったあと、深い眠りに落ちたわたしは、目が覚めるなりいつの間にか帰宅していた彰によりフルーツやらヨーグルトやらを食べさせられた。やっと起き上がれるようになったとたん、『俺、お粥作るよ』と、珍しく張り切ってキッチンに立った彰から出された代物が、この黒いお粥というわけだ。

「料理のひとつも出来ない男なんてモテないわよー。お粥くらいマトモに作れるようにした方がいいんじゃない?」

華梨が教えてくれるんなら」

「いいわよー。授業料はきっちり頂くけどね」

そう言って、二人して笑いを漏らした。

「だいぶ具合良くなったみたいだね」

「ん。まだ本調子じゃないけどね。熱は下がったみたい」

「俺の看病のおかげ?」

「看病ってほどなんかしたわけじゃないくせに」

言って、彰を睨むマネをした。
悔しいから認めたくはないけれど、わたしが今元気なのは、彰がいてくれるからだ。
二人でいれば、見舞い客の来訪を告げない呼び鈴にも、着信のない携帯にも気付かないでいられるから。

「さ、お粥でもいただきますか」

「無理に食べなくてもいいよ華梨

「無理なんてしてないわよ。一日何も食べてないからお腹すいてるの」

黒いお粥でも食べれちゃうくらいにね。わたしがそう言うと彰は眉を下げて笑った。

「うわ、苦い」

予想していたよりも数倍焦げた味がして、思わずそう口にしてしまった。
それを聞いた彰は、わたしが手にしていたスプーンを奪い自分の口に運ぶと、全く同じ感想を漏らした。・・・味見しなかったのかコノヤロウ。
恨みつつも、わたしは2口、3口と、彰力作のお粥を口に運んだ。

結局黒いお粥はわたしと彰が交互に食べ、かなり時間を掛けて一皿空にした。
しかも食べ終わった後はどちらもしばらく口が利けなくなるをいう後遺症付きで、わたしは二度と彰の作ったお粥は食べない・・・と、心にそっと誓った。


「彰、ありがとうね」

やっと口が利けるようになった頃、わたしは言った。苦いお粥食べさせられたりしたけれど、心配してくれたことがうれしいから、そのお礼。
彰はただ、「うん」とだけ返した。

華梨

「ん?」

「俺、華梨の事が好きだよ」

一瞬、なんて言われたのか、意味が理解出来なかった。

「・・・そ・・・う・・・」

「うん」

「・・・でも・・・わたしには彼氏がいるんだよ・・・?」

「知ってるよ」

「・・・あんたにだって、彼女・・・いる・・よね?」

「別れたんだよ」

「・・・へぇ・・そう・・・」

それから暫く、わたしも彰も黙ったままでいた。

「・・・ずるいよ。わたしが弱ってる時にそんなこと言うなんて・・・」

「うん。ごめん」

口ではそう言いつつも、彰は笑っていた。

わたしたちふたりは、これからいったいどうなるんだろう。
彼氏のいるわたしと、たかが高校生でしかない彰。
彰が恋愛対象になるなんて、絶対ない。彰だって、それくらいわかってると思ってた。
わたしと、これからもこの部屋にいなくちゃならないんだよ?彰。
辛い事だって、思わなかったの・・・?


「・・・彰・・・」

「うん?」

「・・・あんたって、無謀」

わたしがそう言うと、彰は満足そうに笑って、ゆっくり立ち上がり、言った。

「知ってるよ?」

満足そうな笑顔はそのままに、彰は自分の部屋のドアを開けた。


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