流れていた涙が止み、私は顔を上げた。添えられていたカカシの手が、頭からそっと離れていく。
彼の手の大きさと温もりがまだ残っている。目の前にいるカカシと視線を合わせることに、気恥ずかしさを覚える。私は不自然に目を逸らした。
冷静になって考えてみれば、私はなんとも不思議な状況下にある。
カカシの部屋で横並びに腰を下ろして、お酒を飲みながら誰にも話したことのない過去を語っている。
自分で選択したこととはいえ、違和感を覚える現状。時間が経てば、後悔したりするかもしれないな、と私は思う。思いはするけれど、すぐにこの部屋を出ていくことまで考えが及ばない。
全ては、アルコールのせいでぼんやりした脳みそのせいだ。
もう少しここにいたいと思うのも、私の通常の精神の思考ではない。
「……ねえ」
「んー?」
「あなたの左目……見えないわけじゃないんでしょう?」
以前カカシが入院した際、目にしたカルテ。そこに彼の左目が失明しているという記載は無かったことを記憶している。
「左目は写輪眼になってる。チャクラを無駄に消費するから普段は閉じてるんだ」
「シャリンガン?」
「瞳術だよ」
私は閉じられたままのカカシの左目をじっと見つめた。
「見せてくれる?」
「楽しいものでもなんでもないよ」
「いいの。見てみたい」
カカシは困った顔をしたけれど、小さく息を吐いた後で「いいよ」と答えてくれた。
カカシが私を見つめる。閉じられた左目が、ゆっくりと開いていく。私は無意識のうちにゴクリと喉を鳴らしていた。
赤い瞳が私を見ている。背筋がぞくりと寒くなった。
シャリンガンだとか瞳術だとか、私にはよくわからない。それでも、今目の前にあるこの瞳は、命の消える瞬間を何度も見てきたのだろう。
「……親友の目だったんだ」
静かな声で、カカシが言った。彼の視線が私から離れる。
カカシの視線はベッドの枕もとに向けられ、そこに置かれた写真立てを見ていた。
子供が3人と、大人がひとり写っている。子供のうちのひとりは、見慣れた銀色の髪をしていた。
「あれ、カカシ?」
「ああ」
「……生意気そう」
「ひねくれてたんだよ」
「左目はまだシャリンガンじゃないのね」
「……一緒に写ってるゴーグル掛けた奴がいるでしょ」
「ええ」
「うちはオビトといって、俺の命を救った英雄だ」
「左目はあの子の……?」
カカシは頷いて、グラスを口に運ぶ。彼の横顔をじっと見つめながら、次の言葉を待った。
「……今でも時々夢を見るんだ」
「夢?」
「オビトは自分の命を省みることなく、オレの命を救った……その時の光景は忘れられない」
「………」
「うなされてるところをヒバリに見られたのは恥ずかしかったけどね」
カカシはそう言って、薄く笑った。
以前カカシが入院した際に、うなされていたことを思い出す。
カカシも、大事なひとを失ったのだ。それが彼の傷になっている。
傷を抱えながら、彼は忍として生きている。
命が奪われることの悲しみを知っていても、それでも彼は他人の命を奪うのだ。
不思議なことに私は、そんなカカシに対して怒りよりも哀しみを覚えていた。
気が付くと、私は腕を伸ばしてカカシの体を抱き締めていた。ふわりと、カカシの匂いがする。
カカシは、私の背中に腕をまわした。
「……ヒバリ」
「……なに?」
「今オレが考えてることがわかる?」
「……わかると思う」
抱き合ったまま交わされる会話。耳元で響く、カカシの低い声。
このままキスをして、服を脱ぎ、体を重ねるのは簡単なことだ。
癒えない傷を抱えて、高まった孤独をまぎらわせる方法。ほんの一時でも、人肌に触れることで忘れられるならと、この部屋に訪れる前から、心のどこかでこうなることを予感していた。おそらく、カカシも。
「……ヒバリを抱きたいとは思うんだけどね」
独り言のように呟かれたカカシの言葉。私は小さく頷いた。
「今そんなことしても、後悔するだけだと思うんだ」
「………」
カカシはそう言って、私を解放する。
私を見つめる目が、僅かに熱を帯びているような気がした。
「……それでもいいって言ったら?」
「え?」
「後悔してもいいから、私を抱いてって言ったら……どうする?」
「……なんだか試されてるみたいだな」
カカシが苦い笑いを漏らす。私は彼の目から視線を逸らさず、じっと見つめ続ける。
「孤独をまぎらわせるのは簡単なことだ。でもそれってほんの一瞬でしょ?」
「………」
「僅かな一瞬のためだけに、お前に後悔なんてさせたくない。それに、オレ自身も後悔したくないから」
「……一度体を重ねたくらいで割り切れないほど私は子供じゃない。……カカシだって」
「まあそうなんだけどね……。それにお前は近付こうとすると遠くへ行ってしまうから」
「………」
「ヒバリが遠ざかっていくのが怖いんだよ」
カカシは、力のない笑顔で言った。
「……ずいぶん臆病なのね」
「こう見えて結構ナイーブだからね」
冗談めかして言ったカカシの台詞。私は小さく笑ってみせた。
「……もう少し、飲んでもいい?」
「好きなだけ飲みなよ」
新たな瓶の蓋を開け、私はカカシのグラスに注いだ。
ありがとう。そう言ったカカシは、穏やかに微笑んでいる。
傷付いた、臆病で弱いいきもの。それが目の前にいるカカシなのか、それとも私自身なのか、よくわからなくなってしまった。
高まっていた孤独感は、いつのまにか和らいでいる。
〇
目が覚めた時、私はカカシの部屋の、彼のベッドの中にいた。
昨夜の記憶はきちんと残っている。お酒を飲んでいるうちに眠気に襲われ、うつらうつらしはじめた私に、「寝ていいよ」と、カカシは言った。
ほんの僅かな間、寄りかかるだけ。そんなつもりでカカシの肩を借りた。
カカシの肩に寄りかかり、そのまま眠りに落ちてしまったらしい。そしてカカシがベッドに寝かせてくれたのだ。体が浮く感覚がしたのは夢だと思っていたけれど、あれはカカシが私を抱えてくれたのだろう。
少し肩を借りるだけのつもりが、彼の寝床まで奪ってしまったのはさすがに申し訳なく思う。
ベッドから起き上がり、室内を見渡す。朝の太陽が満ちた部屋は静かだった。カカシの姿はない。
ひとつ、小さく吐息を吐き出す。
カカシがいなくてよかった。今彼がここにいたら、どんな顔をすればいいかわからくて、戸惑っていただろう。
身支度を整えようと立ち上がると、私の身体からカカシの匂いがした。彼のベッドで一晩過ごしてしまったせいで匂いが移ってしまったようだ。
それにしても、カカシはどこにいったのだろう。少し出ているだけなのか、それとも任務に赴いたのか。書き置きの1つくらい残しておいてもいいのではないだろうか。寝ている私をひとりで置いていくことも、不用心だとは思わなかったのだろうか。
変なところに気遣いのないひとだと、そんなことを考えながら玄関のドアを開ける。
戸締まりはどうしたものか。他人の家の鍵を閉めずに出ていくことに罪悪感を覚えるけれど、私にも都合がある。
「ここはワシが見ておる。お前は帰るといい」
不意に聞こえた声に、ドアノブを握ったままだった手がビクリと揺れた。
足元に視線を落とすと、そこには一匹の犬がいた。犬はじっとこちらを見つめている。
「お前がヒバリだろう?カカシから話は聞いておる」
犬が喋っている。私は混乱しそうになったけれど、犬の口から漏れたカカシの名前のおかげで冷静さを失わずにすんだ。
「……あなたは……?」
犬に話し掛けるなんてなんだか滑稽だと思いながら、私は問い掛ける。
「ワシはパックン。カカシの忍犬だ」
「忍犬……」
聞いたことがある。忍たちは忍術のひとつとして、動物を用いることがあると。
「……カカシは任務?」
「ああ。なんでも急な任務が入ったとかで、お前をひとり残していくのを気にしとったからな。ワシを代わりに置いていきおった」
くだらんことに使いおって。ぶつぶつと文句らしきものを漏らす犬。おそろしくふてぶてしいけれど、憎む気にはなれない。
「……じゃあ私は帰らせてもらうけど……」
「うむ」
犬は体を横たえ、目を閉じた。カカシが帰ってくるまでの間、ずっと休んでいるつもりなのだろうか。
「あの……ありがとう。カカシにも、そう伝えておいて」
私が声を掛けると、犬は片目だけを開けて、私を見た。私の言葉を聞き終えると、何を言うでもなく、再び目を閉じる。
休む体勢になった犬を残し、私はその場を後にした。
家へ戻る道すがら、空を見上げる。
晴れ渡った空。気持ちのいい青が広がっている。
昨夜、カカシと体を重ねてしまわなくてよかった。私は心からそう思った。
もし体を重ねてしまっていたら、今頃とても後悔していただろう。カカシの言ったように、彼から遠ざかることを考え、悩み、深いところに落ち込んでいただろう。
今の私は、カカシから遠ざかることを望んでいない。認めたくはないけれど。
カカシの穏やかな笑みが、真っ直ぐな眼差しが、遠ざかってしまったら、私はまた孤独を感じる。
不思議なことだ。他人に対して、それも、忍に、そんな感情を抱くだなんて。
太陽の光が眩しい。
私は再び前を向き、まっすぐ歩き始めた。
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