「ヒバリ」
入院患者の見回りを終え、準備室に戻る途中、背後から声を掛けられた。
振り向いた先にはカカシの姿があって、私と視線を合わせると、少し目を細めた。
「……任務、終わったの?」
「ああ、さっき帰ってきたところ」
所々汚れや傷のある忍服。彼の全身にさっと視線を走らせる。どうやら大きな怪我はないようだ。
「そう……おかえりなさい」
私が言うと、カカシは笑みを深めた。そして「ただいま」と、優しい声で言う。心臓が大きく揺れた気がした。
カカシの浮かべる笑みをそれ以上直視することができなくて、私はすっと視線を下げる。
カカシと顔を合わせるのは、3週間ぶりくらいだろうか。
前回カカシに会った時、私は彼の部屋で、今まで誰にも話したことのなかった過去の出来事を聞かせた。
忍によって崩壊させられた故郷と、喪われた両親。思い出しては傷ついて、過ぎたことだとわかっていながら、悲しみと憎しみが心の奥で騒ぎ出す。
悲しみと憎しみが溢れてしまわないように、私はいつも自分の心とだけ向き合ってきた。
そんな私にとって、他者の目からは見えない深い傷をさらけ出すことは、とても勇気のいることで。
カカシは忍だ。私が全てを失った元凶と、かつてあんなにも憎んでいた忍なのに。
それでも、カカシになら私が何を感じ、どんな道を歩んできたか話してみてもいいかもしれない。そんな風に思えた。
私のなかで、何かが変化しているのかもしれない。
「あの……この前はありがとう。……色々と」
昔の出来事をカカシに話したあの日、私はうっかり彼の部屋で寝入ってしまった。ベッドを拝借し、朝までたっぷりと寝入ったあげく、任務に出た彼とは顔を合わすこともなく、礼も言えず仕舞いだった。
カカシに迷惑をかけた気恥ずかしさから、私の声は小さくなる。けれどカカシは気にする風でもなく、穏やかな声で話し続ける。
「お礼はパックンから聞いたよ。オレこそ悪かったね、急に任務が入っちゃって」
「パックン……」
「オレの忍犬」
「ああ、あのふてぶてしい」
「ハハ、酷い言われようだな」
ま、確かにちょっとふてぶてしいかもしれないな。
カカシは笑いながらそう続けた。なので私も、ほんの少しだけ笑う。
「ヒバリ、今日はいつまで仕事?」
「今日はもうすぐ終わり」
「なら、飯一緒にどう?」
「私はいいけど……カカシ、休んだほうがいいんじゃないの?任務が終わったばかりだし……」
「オレは平気だよ。ありがとーね」
「……なにが?」
「オレのこと気遣ってくれて」
じゃあまたあとで。カカシはそう言って、私に背を向ける。
私は彼の背中を見送って、仕事に戻る。
カカシを気遣ったつもりは、まったくなかった。そんな自分驚くけれど、なぜか嫌な気持ちにはならなかった。
〇
「そういえば……院長が褒めてたよ、ヒバリのこと」
カカシと食事を共にした帰り道。まだ明るいからと私は言ったのだけれど、カカシの「送るよ」という言葉に甘え、私たちは並んで道を歩いていた。
食事中でさえ交わす言葉は決して多くはなく、帰路についてからもしばらく沈黙が続いていた。
不意に呟かれたカカシの言葉は、私の機嫌をとろうだとか、そんな意図はまったくなくて、ただ単純に事実を告げているのだとわかる、淡々とした口調だった。
「院長が?」
「ああ。仕事に対して真摯に向き合ってる、だって」
「……仕事だから当然だと思うけど」
「ま、そうなんだけどね。お前の場合、死とも向き合うことが多いだろう?」
「………」
「逃げ出さず、目の前の命を救おうとする姿勢を、院長は買ってるんだよ」
「救おうだなんて……。だいたい私にはそんな技術無いのに。救うのは医療忍者の仕事だから」
「その医療忍者だって、ヒバリたちの助けがあって仕事ができる」
「でも、たいしたことはしてないから」
「大きい小さいじゃないよ。ヒバリたちのしてることが、オレたちを救ってくれてる」
そう語るカカシの横顔を、私はじっと見つめていた。前を見据えたままの目が不意にこちらへ向けられて、私は慌てて視線を逸らす。
カカシは、不思議なひとだ。
私が経験した悲しみや、抱えてきた憎しみを知りたいと、彼は言った。そして私は、今まで誰にも語ったことのない過去を彼に話したのだけれど、カカシは一切、この話題には触れない。まるで興味ない、みたいな素振りで。
押し付けがましい慰めやありがた迷惑な優しさはいらないから、カカシの態度は私にとっては一番望ましいものだ。
けれど、突き放されているような感じもしない。もし私の心が悲しみや憎しみに犯されてしまったら、すぐに手を伸ばしてきそうな気がするから不思議だ。
そしてさらに不思議なのは、そういうカカシが自分の側にいることに対して、警戒心が薄い私自身。
今までの私ならもっと身構えて、相手の一挙一動に神経を研ぎ澄ませていたはずで。
今の私からは何かが抜けてしまっていて、酷く不安定なのに、何故か心許なさを感じない。
本当に、不思議なことだと思う。
「ヒバリは休みの日は何してるの?」
話題が変わる。
この人は本当にそんなことを知りたいのだろうか。知ってどうするのだろうかと思いながらも、私の口はするりと応える。
「家のことしたり買い物をしたり……かな。カカシは?」
「オレも同じかな。家にいることも少ないけどね」
「任務で」
「そうだね」
「………」
「好きなことは?」
「好きなこと?」
「楽しみなこととかないの?」
「さあ……無趣味なのね、私。……あなたは?」
「うーん……読書、とか」
「へえ……どんな本を読むの?」
「……ま、色々……かな」
何故かカカシが気まずそうに目を逸らした。彼にしては珍しい反応だと思いながら、「そう」とだけ返して、深く追求しないことにした。
私たちの間に沈黙が降りてきて、周囲の喧噪が耳に届く。
私は視線を道へと移す。道なりに商店が並ぶ通り。出店のようなものも所々に置かれていて、そのうちのひとつに目がとまった。
テントで設えられた、いかにも仮宿的な佇まい。少し黄ばみのあるテントの下に並べられているのは籠だ。
籠の中には色とりどりの鳥がいて、とても眩しい。どうやら鳥を売る店のようだ。
「ヒバリ?」
足を止めて出店を見ている私を振り返ったカカシ。
「珍しい鳥だね」
私の視線の先にあるものを認めて、カカシが言った。
「珍しい?」
「この辺にはいない鳥だ。かなり遠い国にいる鳥なんじゃないかな」
「そうなの……」
カカシと言葉を交わす間も、私の視線は鮮やかな鳥たちに向けられたままだった。
狭い籠の中で、美しい羽をパタパタと動かし続ける彼らは、いったい何処からやってきたのだろう。
「……ちょっと待っててくれる?」
ぼんやりと鳥を見つめる私に声をかけて、カカシが離れていく。鳥籠を並べた店先で立ち止まり、店主らしき男性と言葉を交わす。やがて彼はくるりと振り向き、こちらへと戻ってきた。その手には、小さな鳥籠がある。
「はい」
カカシは鳥籠を私へと差し出した。
小さな籠の中には、青い鳥が2羽。大人しい性質なのか、仲良くならんで止まり木に佇んでいる。
「……私にくれるの?」
「ああ」
「……2羽も?」
「だって、1羽じゃ寂しいでしょ」
「……そうね」
差し出された鳥籠を両手で受け取る。突然の揺れに驚いたのか、パタパタと飛び回る小鳥たち。
青い羽が太陽の光を受けて、つるりとした光沢を放つ。
「鳴き声も綺麗なんだって」
「そう」
私は小鳥たちを見つめる。黒々としたつぶらな瞳に、青い色の体。とても美しいと思った。
「……ありがとう、カカシ」
私が言うと、カカシは目を細めた。カカシのその表情を見て、私の心が微かに重くなる。
鳥たちを見つめていた私への、カカシからの贈り物。きっと彼は、私があの鳥たちを欲しがっていると、そう思ったのだろう。けれどあの時の私は、遠い国から連れて来られた鳥たちは何を思っているのだろうと、そんなことを考えていた。
カカシに、そう話すべきなのだと思う。だけど何故か言葉が出ない。
カカシに貰った鳥が小さく鳴いた。私は鳥籠を抱きしめる。
胸が少し苦しいのは、抱え込んだ鳥籠のせいなのだと自分自身に言い聞かせ、歩き始める。
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