幼い頃の出来事がいつまでも心に残っている。私は、少なからず傷付いたのだ。
子供の頃は傷付いた事実を認めることができず、いつも見てみぬふりばかりしていた。時間の流れとともに傷は癒えていくものだと、そう思っていた。けれど、どれだけ時間が流れようとも傷は不意に疼きだし、その存在を主張する。
傷も含めて、私という人間なのだ。そう認められるまでに、ずいぶん時間がかかったように思う。
認めることで痛みはだいぶ和らいだけれど、虚しさだけは増していった。どこにいても誰といても、傷を覆い隠して、ひとりだけで生きていく。
孤独。
結構じゃないか。私は孤独と向かい合って生きていくことを、自分自身で求めていたのだ。弱音を吐く筋合いもない。
〇
「ヒバリ」
病院の出口から表へ出たところで声を掛けられた。はたけカカシは私と視線を合わせ、目を細める。
私はわざとらしいくらいのため息を吐いた。
「……待ち伏せするのが好きなの?」
「待ってる時間は嫌いじゃないよ。それにお前はオレが呼び出しても来てくれないでしょ?」
「そうね」
私の答えを聞いて、カカシは笑う。
「それで?私に用があってきたんでしょう?」
「用ってほどじゃないよ。一緒に飯でもどうかと思って」
「理由は?」
「え?」
「以前私を食事に誘った時、あなたは交際しているふりへのお礼だと言った」
「そうだったな」
「だから今回はどんな理由なのかと思っただけ」
「理由がいるなら、それでいいよ」
「……本当は何が目的なの?」
「ずいぶん疑うね」
「当然でしょう?」
言葉の裏に何かを隠すのは、忍としての習性なのか。それとも、カカシという人間の性格なのか。
前回共に食事をした席で、このひとは『私について調べた』のだと言った。私がそんなことを望んでいないと知った上で、わざわざ報告まで寄越して。そんな相手を前に、どうして疑わずにいられるだろう。
私とカカシは暫く黙ったままでいた。
黙りこくっているのにも飽きてきて、私は「食事にいく」と答えを返す。
これ以上知られて困ることは、もうなにもないのだ。彼は私の傷口を、既に知ってしまっているのだから。
「本当の理由は、ヒバリと話がしたかったからなんだ」
連れてこられたのは前回とは違う店だった。隅のテーブルへ案内され、向かい合って腰を下ろす。料理を注文して待っている間、どちらも口を開かずにいた。料理がテーブルに運ばれてきた頃に、ようやくカカシが口を開いた。
「……話って……なにを?」
「なんでもいいよ。お前が普段なにを考えてるかとか、仕事のことでもいい」
そう言われても、私は彼に話すことなど何も持ち合わせていない。
私は黙ったまま、運ばれた料理に手を付ける。
「……最初、お前はオレたちを恨んでるんだと思ったんだ」
暫く続いた沈黙の後で、カカシが言った。
「……『オレたち』って……忍をってこと?」
「ああ。……でもお前はこの里で忍を救う仕事をしている。その姿に嘘はなかった」
カカシの右目が、私を真っ直ぐに見つめている。私は視線を逸らし、遠くを見た。視界に映るのはあまり賑わっていない店内の空席と、壁際に立つ店員の姿。それらは視界がとらえているだけで、頭の中には入ってこない。私は今、自分の心の内側をじっと覗き込んでいる。
「……確かに……恨んでいた時期もあった……どうしようもなくね。でも時間の流れとともに、よくわからなくなってきた」
「………」
「……本当は今でも忍を恨んでいるのかもしれない。あるいは、それを確かめるためにこの里にきたのかも」
カカシは何を言うでもなく、小さく頷いた。
今日の私は、どうかしている。自分の気持ちを素直に他人に伝えるのは、随分久しぶりのように思う。試しに記憶をひっくり返してみたけれど、やっぱり覚えはなかった。
「お酒を飲んでもかまわない?」
「オレも飲もうかな」
酒を飲みながらぽつぽつと交わされる言葉のやり取りは断片的で、すぐに沈黙がやってくる。私はその沈黙を、以前のように気まずく感じなくなっている。それはとても不思議なことだ。
「……お酒、飲んだりするんだ」
運ばれてきたグラスに口を付けるカカシを見ながら、私は言った。彼ら忍は、私たちとは違うストイックな生活や、禁欲的な日常を過ごしているのだと思っていた。
カカシは眉を下げて、少しだけ笑う。
「オレたちもヒバリと何も変わらないよ。酒も飲むし、羽目も外す」
「あなたにそんなイメージはないけど」
「ま、羽目は外さないかな。もうそんな若くもないしね」
「ふふ……たしかに」
私の口から自然と漏れる笑い。カカシは私を見て、眩しそうに目を細めた。
「ヒバリが笑ってるところ、初めて見たな」
「……きっとお酒のせいだから」
「そうなの?」
顔に刺さるカカシの視線を肌で感じながら、グラスを大きく傾ける。
そう、全てはお酒のせいだ。私はとても酔っている。
「……カカシ……きいてもいい?」
「いいよ」
「あなたはどうして忍になったの?」
「……どうしてだろうね」
「はぐらかすの?」
あなたは私について調べたっていうのに?そう言外に込めた台詞。カカシは苦っぽく笑ってみせる。
「はぐらかしてるわけじゃないよ。どう話せばいいのか考えてたんだ」
「それで、考えはまとまった?」
「うーん……どうしてって言われると困るんだけど……気がついた時には忍になるんだって思ってたんだ」
「子供の頃からってこと?」
「そうだね。父さんの背中を見て、父さんのような忍になりたい。そう思ったのが最初だったかな」
「どんな忍なの、お父さんは」
「とても優秀で、仲間思いの忍だった。若い頃はそういう父さんを理解できなかったこともあったけどね」
「そう……」
忍だった。カカシは自分の父親を過去形で語った。
彼の父親についての詳細をそれ以上訊ねていいのか考えあぐねるうち、カカシの方から口を開いた。
「自殺だったんだ。仲間を救うことを優先するため、任務遂行を諦めた父さんは周囲に責められ、それを苦に死んだ」
そう語ったカカシの表情からは、感情を読み取ることができない。
「それからオレは随分ひねくれたガキになった」
カカシが笑って言う。私もほんの少し笑った。
「ひねくれてたの?」
「ああ。かなりね」
ひねくれていたという少年時代のカカシは、いったいどんなふうだったのだろう。そう考えて、私は自分の思考に驚いた。
他人に、しかも忍に興味を抱いている自分がいる。こんなこと、今まで一度もなかったのに。
私は自分自身にとても戸惑っていた。アルコールのおかげで頭がふわふわしはじめていることに気付く。
「……そろそろ帰らない?」
「ああ、いいよ」
これ以上新しい発見をしてしまうことが怖かった。
今までと違う自分に気づいてしまうことが怖い。そんな自分を受け入れる準備が整えられていない。
私たちは店を出る。漆黒の夜空に浮かぶ満月。青白い光で地上を淡く照らしている。
帰り道、私とカカシは言葉を交わさない。数歩先をゆくカカシの後を、のんびりした足取りで私が続く。
歩きながら、私は上空を見上げていた。目を凝らせば、月の表面が見える。私の歩調に合わせて丸い月が上下に揺れる。私は鼻歌をもらす。
「……いい歌だね」
カカシが私を振り返る。目を細めて笑っていた。
「……故郷の歌なの」
もう地図上には存在しない国の。私がそう言うと、カカシは小さく頷いた。
私は再び鼻歌を続ける。カカシは黙り、耳を傾けているようだった。
親から子へと継がれる子守り歌。いささか古臭いこの歌は、母に歌ってもらって覚えたものだ。
幼いころは意味も分からなかった歌詞は、故郷の山や川を褒め称えるようなもので。
気が付くと私の目から涙がこぼれていた。カカシには気付かれたくなくて、私は構わず歌い続ける。
カカシは黙ったまま私の手をとった。握られた手から伝わる、カカシの体温。
熱くも冷たくもない手に導かれ、私は歩き続ける。
「……ヒバリ」
涙がおさまった頃、カカシが不意に振り向いて、私の顔をじっと見つめる。
「そろそろ話してくれない?これまでのこと」
「……あなたは私の過去を調べた。なら、話すことなんて無意味でしょう?」
「お前がどう感じたのかが知りたいんだよ」
カカシはそう言って目を細めた。優しい笑みだと思った。
目頭が熱くなるのを感じる。また涙を流してしまうかもしれない。
慌てて俯く私。カカシは何を言うでもなく、再び歩き始める。手は繋がれたままだ。
「……もう少しお酒がいるかもしれない」
「ああ、いいよ」
カカシが微笑む。顔は見えないけれど、気配だけでそれがわかった。
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