846年。王都の地下街に、自由の翼の紋章を背負った男たちがいた。

「相変わらずはきだめみてぇなとこだな……」

男たちの先頭に立っていたリヴァイが、ひとり呟く。薄暗い路地に満ちる、湿った空気と鼻につく腐敗臭。彼の視界に映るのは薄汚れた通りと、通りに横たわる人の姿。人間であるのか、抜け殻になっているのかもわからない。人々はみな揃いも揃って汚れた布を纏い、うつろな目をしている。
すれ違う人間はリヴァイたちの纏っている服を見てあからさまに避けるか、挑戦的な目で睨み返してくるかのどちらかである。

「ここは憲兵団の縄張りだろうが……何故俺たち調査兵団がこんなことしなきゃならねぇんだ」

苛立ちを含んだリヴァイの声に、慌てて口を開いたのは同行している部下だった。

「しかたありません……。貴族たちが集う会議に憲兵団は駆り出され、そのうえ反王政分子たちがその隙を狙って襲撃を起こすかもしれないとなると、我々も手をかさない訳にはいかないでしょう……」

部下の言葉を耳に入れながらも、リヴァイの意識は通りに横たわる人々に向けられていた。
リヴァイがこの地下街に足を踏み入れたのは数年ぶりのことだった。暫し離れている間に随分人が増えたと、リヴァイは思った。

今から約1年前。超大型巨人の出現によりウォール・マリアが破られ、人類の活動拠点はウォール・ローゼまで後退した。
一気に膨れ上がった人口と、危急的な食糧難。それらの打開策として政府が打ち出したマリア奪還作戦が行われたのはつい先日のことだ。
人口の2割が作戦に投下された作戦は不成功に終わり、軍はほぼ壊滅状態。苦しくも大勢の犠牲を出したこの作戦により、人類は貧窮という危機から解放された。とはいえ、人々の生活苦は相変わらず続いている。
続く食糧難と過密的な人口密度。まともに暮らしていくことのできない人間が、この地下街へ流れ込んでくる。

強盗や人身売買、殺傷事件など、この地下街では当たり前のものになっている。
最近では、厳しい現状を回避できずにいることや無謀な奪還作戦を打ち立てた王政に対し反感を持つ人間が集まる場所になりつつあった。

王政の重鎮たちが顔を揃える会議の最中、なにか事が起きるとすればこの地下街が発端である可能性が高い。しかし普段ここを管轄としている憲兵団は重鎮たちの護衛に回っている。
憲兵団の人手不足に不安を感じた貴族たちは、リヴァイら調査兵団も一時的に憲兵団同様の活動を行うよう命令を下したのだ。

「自分の命の保証しか考えのないブタ野郎共が……。奴らの側に蔓延らせてる大勢の憲兵団の人数を削りゃすむ話だろうが」

「我が調査兵団は慢性的な人員不足だというのに……呑気なものです」

リヴァイにつられ、そう漏らした部下の男は慌てて口をつぐんだ。王政への不満など軽々しく口にしてはならない。彼自身もまた、兵士なのだから。
リヴァイが振り返り、部下を一瞥する。が、特に言葉はなく再び視線を前方へ戻した。
咎められるかもしれない。リヴァイの鋭い視線に不安を感じた部下が、そっと安堵の息を吐き出す。

先頭を歩くリヴァイが突然足を止め、部下たちもそれに倣う。リヴァイの視線は少し先の、路地の突き当たりに向けられている。
視線の先では数人の男たちが囲いをつくるようにして佇んでいる。リヴァイたちの存在には気づいていないようだ。狭い路地に、男たちの話声が響く。

「……どういうつもりだ、餓鬼」

「もうやらないってのは、俺たちを裏切るってことか?」

響く声は低い。恐らく誰かを相手に脅しているのだろう。
面倒な場面に遭遇した。リヴァイは、そう思った。
リヴァイが常日頃相手にしているのは巨人だ。巨人を相手にするには、自らの持つ力を全て注ぎ込まなくてはならない。だが人間相手にそうはいかない。上手く力を抜くことができるだろうか。

「……裏切る?冗談はよせ。始めからお前たちと組んだつもりはない」

リヴァイが一歩足を踏み出したと同時に響いた声。激昂している様子も怯えている様子もないその声は、地下街の路地には不似合いな軽やかさを含んでいる。
男たちに囲まれているのは、少女だった。
少女はやせ細った体を汚れた衣服で包んでいる。泰然とした態度。顔からは感情を読み取ることはできない。ただ瞳だけが爛々と輝き、目の前の男たちを睨み上げている。

「兵長」

地下街で起きている異常事態に気付いた部下が声を上げる。どう対処すべきかという指示を仰いでいるのだ。
リヴァイは何も答えない。視線を少女に向けたまま、動くこともしない。

男たちのなかのひとりが、拳を大きく振り上げた。が、次の瞬間男は激しく地面に倒れこむ。
何が起こったのか理解できず、互いに視線を交わしあう部下たちとは対照的に、リヴァイの視線は動かない。

ひとりの男が倒れた隙間から、少女が姿を表す。囲いから抜け出しそのまま逃げ出すのかと思いきや、少女は振り返ると腰を低く屈め、右手に立っていた男の膝裏に蹴りを入れる。
受けた衝撃で男はその場に膝を着く。少女は男の顔面に拳を食い込ませる。脳が大きく揺さぶられたであろう男は、そのまま地面に倒れた。
少女の動作は滑らかで、無駄な動きは何もない。繰り出される攻撃に込められた力は、少女の痩せ細った体からは想像もできないほどのものだった。
目の前で繰り広げられる光景に、呆気にとられる部下たちを余所に、リヴァイは少女の一挙一動を見逃すまいと、その姿を見つめていた。

栄養の行き届いていない痩せ細った少女の体。付いている筋肉量自体は大したことはないだろう。あの動きを可能にしているのは、脳から筋肉への神経伝達。持ち得る力を素早く、無駄なく引き出すことは誰にでもできることではない。

次々に繰り出される少女の攻撃は、鮮やかだった。少女を取り囲んでいた屈強そうな男たちは、今や無残に臥せっている。
最後のひとりに向かって、少女は力強い蹴りを繰り出す。その時、臥せっていた男のひとりが少女の背後でおもむろに起き上がった。
リヴァイは舌打ちを漏らし、足を大きく踏み出した。男の手の中で鈍く光るナイフの存在に気付いたからだ。
部下たちの自分を呼ぶ声がリヴァイの耳に届いた頃、彼はすでに男の右腕をひねり上げ、ナイフを手放させていた。
掴んだ腕をそのままに、リヴァイは男の腹部目掛けて膝を食い込ませる。男は低い唸り声を漏らして、再び地面に倒れ込む。

「憲兵団……じゃない。調査兵団……?」

リヴァイが振り向くと、少女は彼の背中を凝視していた。憲兵団の管轄であるこの場所に調査兵団が現れた。その事実に少女は戸惑っているように見えた。
少女の戸惑いは、僅かな一瞬だった。少女はリヴァイに鋭い視線を向け、迷うことなく拳を振り上げる。
リヴァイは少女の拳を受け止め、その腕を空いた方の手で捕らえた。骨と皮しかないような、薄く冷たい腕。

「クソガキ……俺に拳を向けたってことは、それなりの覚悟があるんだろうな」

「……離せ!」

リヴァイの手から逃れようともがく少女。その目はリヴァイを憎々しげに睨んでいる。

「兵長、その少女は被害者なのでは……?」

リヴァイと少女のやり取りを遠巻きに見つめていた部下のひとりが声を掛ける。

「お前何を見ていた?コイツはガキだが、そこに転がってるクソ野郎どもを殆どひとりで倒した……どうみてもこのガキが加害者だっただろうが」

「しかし正当防衛の可能性も……」

「それは俺たちが決めることじゃない」

「では、この少女は憲兵団に引き渡しますか?」

部下の言葉に反応したのか、少女の腕を引く力が強くなる。捕まれているリヴァイの腕をもう片方の手で殴る。常人であれば負傷を免れないほどの力で。

「おい……クソガキ」

「………」

暴れ続ける少女に、冷徹な視線を向けるリヴァイ。周りにいる部下たちに緊張が走る。
少女の腕を捕らえるリヴァイの手に、力が掛かる。同時に少女の顔が苦痛に歪む。それでもなお、恨めしげな視線はリヴァイに向けられたままだ。

「憲兵団に引き渡されるのがそんなに嫌か?」

少女は答えない。返ってくるのは荒い息遣いと、敵愾心を含んだ瞳だけ。
まるで獣のようだと、リヴァイは思う。
その時、遠くから足音が響いてきた。徐々に近付いてくるそれらは、恐らく数人に及ぶだろう。
少女が警戒している。リヴァイの手を通して少女の体の強張りが伝わってくる。
足音が明瞭になったころ、通りの角から姿を現したのは憲兵団の人間であった。

「お前ら調査兵団か。そこで何をしていた」

憲兵団の先頭を歩いていた男が手に持った松明を掲げ、リヴァイたちに向かって叫ぶ。
リヴァイは小さく舌打ちを漏らすと、憲兵団たちの視線から少女の姿を背で隠す。

「行け」

背後に潜ませた少女にだけ聞こえるよう、リヴァイは言った。
リヴァイの言動を理解できずにいる少女は、腕を解放してやってもなおその場から動かない。

「……捕まりてぇのか?」

首を僅かに動かし、少女を見遣る。少女は一瞬迷いを顔に浮かべたが、すぐに身を翻し、地下街の暗闇へと姿を消した。


back