調査兵団本部の一室。団長であるエルヴィンの執務室の扉が開く。姿を現したのはリヴァイだった。

「今戻ったのか」

「ああ」

リヴァイは答えると、備え付けられているソファにドザリと腰を下ろした。

「なにやら揉めごとがあったそうだな」

「………」

エルヴィンが言及しているのは人手不足の憲兵団の肩代わりに行った、地下街の見廻でのことだ。

圧倒的に不利な状況で次々に男たちを倒していった少女。
正当防衛であろうとなかろうと、憲兵団の管轄内で暴力沙汰が起こったことは事実である。重要な参考人として少女を憲兵団に渡すのが、本来のルールだっただろう。
リヴァイが少女を逃がしたことに、憲兵団の人間は気付いていなかった。あの薄暗い路地だ。夜目のきく人間でもないかぎり、全てを見通すことはできない。

重要参考人である少女が姿を消し、憲兵団はその場に佇む調査兵団に状況の説明を求めた。
その場に転がる数人の男。皆意識を失っている。
いったい何があったのか。そう問われ説明しようとした部下を制止し、リヴァイ自ら口を開いた。

―――ここにたむろしてたこのクソ野郎共が俺たちに襲いかかってきた。どうせ悪巧みの最中だったんだろうが……大方、俺たちに捕らえられることにビビったんだろう。だから返り討ちにしてやっただけだ。

リヴァイの説明に、憲兵団はしぶしぶ納得したようだった。不思議そうな顔を浮かべているのは調査兵団の面々で、後の処理を憲兵団に引き継ぎ帰路に付いた後、何故あの少女を逃がしたのかと、リヴァイに問い掛けた。リヴァイは彼らの問いには答えなかった。まだ答えるべきではないと、そう思ったからだ。


「……お前にしては珍しい行動だな、リヴァイ」

リヴァイの報告を聞き終え、エルヴィンが呟いた。そこには咎めている様子も、呆れている様子もない。

「なにか考えでも?」

エルヴィンの目が、リヴァイの表情を見詰める。

「……エルヴィン、話がある」


 

少女は都の地下街で生きている。名前はアンナといった。
生まれはウォール・ローゼにある小さな村だった。父は早くに亡くなり、彼女の記憶に思い出などは一切ない。
母は病弱なひとで、アンナは物心付いた頃から母の代わりに村の農作業を手伝っていた。

貧しく、寂しい生活だった。
稼いだ金の殆どは母の薬代に消えた。自分がその日食べていくのがやっとの状況。周りに存在していた自分と同じ年頃の子供たちが楽しそうに遊んでいるなか、アンナはただひたすら働いた。

―――ごめんね、お母さんが元気だったらよかったのにね。
母は口癖のように、たびたびそう口にした。アンナは母のその言葉を聞くたび悲しくなった。お母さんに悲しい顔をさせたくなくて、懸命に働いているのに、と。
アンナは笑った。母に笑ってもらいたかったからだ。アンナの笑顔を見て、母は微笑みを浮かべた。そして、申し訳なさそうな顔をする。アンナは母のそんな表情に、気付かないふりをするようになった。

出口の見えない生活に終止符が打たれたのは、今から約1年前。
100年間守られてきた平穏が破られた日に、これまで続けてきたアンナの生活も終わりを迎えた。
超大型巨人の出現。破壊された壁。押し寄せる巨人たち。その報せを受け取った時には既にアンナが住まう村に巨人はやってきていた。

農作業のため外に出ていたアンナは急いで家に戻ろうとした。病に臥せった母が、自分を待っていたから。
彼女を止めたのは、周りにいる大人たちであった。大人たちの制止を振り切り、我が家にたどり着いたアンナが目にしたもの。辺りに滴る夥しい量の血と、もはや痛みも苦しみも感じていない母の顔。そして、なんの感情も浮かべずに母を貪り喰らう巨人の姿だった。




目を覚ますと、そこはあいも変わらぬ薄汚い路地だった。アンナは横たえていた体を起こして、こめかみを指で押した。そうするとぼんやりした脳が目覚める気がする。
嫌な夢の余韻を追い払ったアンナの頭に甦るのは、数日前の出来事だった。

―――俺たちを裏切るつもりか?
アンナに詰め寄ったのは、彼女と同じく地下街で這いつくばって生きている連中だ。男たちは所謂反王政の過激分子で、王政関係者の襲撃を計画していた。
男たちの計画にはアンナが重要な役割を果たしていた。
アンナのような年若い少女に対してなら警戒も緩いであろうこと、アンナのもつ身体能力を利用しようとした。王政関係者に近づき、実際に手を下すのは彼女の役目と定めていたのだ。

アンナは男たちの計画への参加を拒否した。
恐怖を感じたわけではない。アンナにとって地下街での暴力沙汰は日常茶飯事だったし、人を傷つける行為への恐怖心は無かった。
罪悪感に苛まれたわけでもない。生きるために他人から金品を盗むことだってしてきたのだ。
ならば何故?そう問われても、答えることはできなかっただろう。アンナ自身にもその理由はわからない。ただ、そんなくだらないことに自分の力を使うことを馬鹿馬鹿しく感じた。

計画への参加を拒否すると、男たちの鼻息が荒くなった。
当然のように暴力をふるう男たちに対し、アンナも暴力で返す。
多人数を相手にしていたアンナは、周囲の状況をうまく把握できていなかった。だから男のひとりがナイフを手に背後から襲ってきたことにも、そんな男を遮った兵士の存在にも、気付くのが遅れたのだ。

背後で起こった異変に気付き、振り返えったアンナの目に飛び込んできたのは、兵士の服。その背中には自由の翼が刻まれていた。
兵士が憲兵団でないことに戸惑いを覚える。この地下街を見張っているのは憲兵団の連中で、調査兵団の姿などは見掛けない。
アンナの戸惑いは僅か一瞬のことだった。目の前に立つ男に向け、素早い動きで拳を振り上げる。が、アンナの拳は男に届かない。
男に腕を取られ、アンナは焦る。こうも簡単に自分の攻撃を阻まれるなど、一度も経験したことがない。
逃れようともがいてみても男の手に力が籠り、握られた腕に鈍い痛みが走る。
憎々しく相手を睨み上げれば、冷徹な瞳が自分を見下ろしていた。

ここまでかもしれない。アンナは思った。
憲兵団に引き渡されれば、牢獄行きは免れない。アンナがにわかに諦めかけた時、奇しくも憲兵団が現れた。
悪足掻きだとわかっていても、アンナは男の手から逃れようともがく。腕を捉えた男の視線が、自分を嘲っているように見えた。
笑いたいのなら笑えばいい。私は絶対に生き延びてやる。

もがくことを止めないアンナに、男は言った。「行け」と。気が付いた時には腕も解放されていた。「捕まりてぇのか?」肩越しに視線を向けて、男が言う。
憲兵団の視界から自分を遮るようにして立っている男の背中をじっと見詰める。男がなにを考えているのか、アンナにはわからない。
主導権を握られたままなのは釈然としなかったが、そんなことにこだわっている場合ではない。アンナは男の背中を一睨みして、その場を後にしたのだった。




不思議な出来事だった。数日経った今でも、自分を逃がした兵士の行いを理解出来ずにいる。
調査兵団であろうとも兵士には変わりない。暴力行為を行った者を見逃すことは、許されることではないはずだ。
なにか目的があったのか、ただの気まぐれか。いずれにしても、もう関わりのないことだと、アンナは思う。
兵士の手を逃れ、囚われの身となることなく今日を生きている。それだけで充分だ。


そろそろ活動しなければ。その日を生き抜くことがやっとなのは、村で生活していた頃と何も変わらない。
アンナが立ち上がりかけたその時、路地の奥に人の気配があるような気がした。
彼女が寝床にしているのは地下街の片隅で、人の往来は殆ど無い。
アンナは路地の角を睨むように見詰めている。人の気配がある気がするのに、なかなか姿が現れない。

体中の神経を意識する。いつなにが起こってもすぐに動けるように。しかし路地の角からは誰も現れなかった。
気のせいだったのかもしれない。そう思い視線を外して体の力を抜いた瞬間だった。路地の角から素早い動きで何者かが突進してくる。アンナがその存在に気付いた時には既に、彼女は腹部に激しい痛みを感じていた。
予期せぬ攻撃。その存在にが身構えようとしたその瞬間、顔面に食い込む拳。それは彼女の脳を揺らすのに充分な重みがあった。
油断した。そう思いながらアンナは与えられた衝撃に堪えきれず体を傾け始める。
意識を手放してしまう寸前、アンナがその視界にとらえたのは、冷徹ともいえる瞳。以前にもどこかで見たことがある気がしたが、彼女の思考力はそこで停止してしまった。


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