トロスト区、壁門へと続く大通り。多くの調査兵団が列をなしている。アンナはその列の中にいた。彼女の前には、自由の翼を背負ったリヴァイの背中がある。

アンナは馬の手綱をぎゅっと握った。緊張していないわけではないけれど、体が動かなくなってしまうほど強張っているわけでもない。ほどよい緊張感だとアンナは思った。

この日、アンナは初めての壁外調査に赴く。
巨人に侵されたウォール・マリア奪還を目指し、進行経路の確保と補給物資などの設置を目的とする壁外調査。壁外に出てからの行動と作戦は、前日までに全て頭に叩き込んでおいた。あとは、訓練で培った技術を無駄なく行使するだけだ。


「……アンナ

緊張感と高揚感に包まれ、ざわめく隊列内。馬の呼吸や蹄が敷石を叩く音に混じって、人間たちの鼓動も耳に届くような気がしてならない。そんな隊列において、リヴァイの落ち着き払った声だけが、奇妙に現実的に響く。

「俺の目が届く範囲にいろ……それと、勝手な行動はとるな」

「言われなくてもわかってる」

壁外調査に出ることが決まった際アンナに言い渡されたのは、遠征中もリヴァイの直属として行動を共にし、指示に従うことだった。
アンナの訓練は全てリヴァイの指示指導のもとに行われていた。実戦でもそうなるであろうことは予想していたとはいえ、見張られているかのようなこの状況は、訓練を終了したにも関わらずいち兵力として扱われていないような気がして、なんとなく気に食わない。
リヴァイの背中を見ていると、苛立ってしまう。アンナは視線を歩道に向けた。
調査兵団の出立を見守る民衆。そのなかの小さな子供と視線がぶつかる。
子供の、きらきらと輝く小さな目が、アンナを見つめる。アンナは子供と目を合わせていることに耐えられなくなり、再び視線を前方へと戻した。


「どうした」

アンナの様子がおかしいことに気付いたらしいリヴァイが、ちらと振り向く。
「べつに」と素っ気なく答えると、リヴァイはそれ以上何も言葉にしなかった。

きらきらと輝く小さな目が、脳裏に焼き付いてしまっている。きらきらと輝く、無垢な瞳。
あの目に見つめられると、なぜかアンナは胸が苦しくなった。後ろめたいような、恥ずかしいような気持ち。
あんな目を向けられるような、上等な人間ではないのだと、アンナは思う。

――余計なことは考えるな。目の前の敵に集中しろ

不意にリヴァイの声が耳に届き、アンナは意識を引き戻した。リヴァイは相変わらず前方を見据えている。聞こえてきた声が、目の前にいる彼の言葉だったのか、訓練中に言われた言葉がよみがえってきただけなのか。

門前で隊列は停止し、士気を高める為の演説があたりに響いた。
演説に合わせ、周囲にいる兵士たちが自らを鼓舞するように吠え、拳を振り上げる。


「開門!」

ついに掛けられた号令を合図に、先頭から徐々に壁の外へと進んでいく。アンナは門を潜る直前に、高くそびえ立つ壁を見上げた。
この壁の向こうに広がる世界になにが待っていようとも、強く戦ってみせる。
決意を新に、アンナは門を潜ったのだった。





――どうしてだろう。

馬上で体を揺らしながら、アンナは考えていた。

――どうしてあの男は、あんなにも強いのだろう。

トロスト区を出た隊列は旧市街地を抜け、農村跡地に陣をしいていた。補給物資の設置を行う班と、設置班を巨人から守る戦闘班とに別れて活動している。
アンナはリヴァイと共に戦闘班として動いていた。

人間にのみ反応し食する巨人たちは、現在の場所で設置を開始した頃から群がりはじめている。しかしアンナは一度として巨人を倒してはいない。
次から次へと現れる巨人たちを、リヴァイが片っ端から殺していくのだ。
おそらく5体目くらいになるだろう。リヴァイが鮮やかとしかいいようのない動きで、巨人のうなじを削る。
無駄な動きなど一切ない。到底追い付けそうにないスピードと、刃を振るう場所の的確さ。
リヴァイという男の強さを目の当たりにし、アンナはやるせない気持ちになる。
それだけの強さがありながら、どうして私を調査兵団に入れたのか。私がここにいることに、いったいなんの意味があるのか。リヴァイにそう問いかけたくなってしまう。


「北側と南側から巨人接近中です!」

設置班のひとりが声を上げ、アンナはそれぞれの方角に視線を走らせる。
北側から1体、南側から2体。大きな足取りで、確実にこちらに迫ってきている巨人たち。

アンナ、お前は北側をやれ」

リヴァイの声はこんな状況においても乱れることはないのだなと、アンナは思う。
聞き慣れた、冷静な声だ。もっとも、そんなことを考えられる余裕のある自分も、案外いつもとそうかわりないのかもしれない。

リヴァイの指示に従い、アンナは馬を北側へ走らせた。巨人との距離が縮まってゆく。
巨人の手が伸びてくる。馬を操り、大きな手が届く前に巨人の足の間を潜り、背後に回り込んだ。回り込んだと同時、上体の向きを変え、アンカーを放つ。
放ったアンカーは巨人の腰の辺りに刺さった。ワイヤーを巻き取る力で馬上を離れる。すぐさまもう1つのアンカーを巨人の肩あたりをめがけて放つ。アンカーが刺さったのは、狙い通りの場所だった。
ガスを吹かし、体が宙に浮く。体の中で内臓が揺れる感覚。
重力に引かれ高度が下がっていく。体勢を整えながら刀身をグリップに装着し、腕を振り上げる。
うなじの肉を削ぐ。狙い通りの位置、そして深さ。
アンナが着地したのと同じタイミングで、巨人の体が地面に倒れた。すでに事切れている。

アンナは南側に視線を向けた。巨人の1体はすでに倒れており、リヴァイの剣が2体目の巨人のうなじに食い込んだ。
2体目を倒したリヴァイの視線が、アンナに向けられる。リヴァイの動きに魅入っていたアンナは、目が合うと慌てて視線を逸らした。

「次が来る。気を抜くなよ、アンナ

リヴァイは北側、遠くに視線を向けてそう言った。彼の視線の先に、巨人の姿がある。アンナはグリップを握る手に力を込めた。




こうして戦っていると、時間の流れがわからなくなる。
襲いかかってくる巨人を片っ端から倒していく。今うなじを削いだこの巨人が、何体目かもわからない。倒した巨人はすでに蒸発して、その姿はどこにもないのだ。

アンナはリヴァイの姿を探す。アンナのいる位置からそう遠くない場所で、彼もまた巨人のうなじ削ぎ落としたところだった。
リヴァイの目は設置班へと向けられた。進行状況を確認しているのだろう。この場所での設置を終え次第、本隊に合流する作戦だ。
リヴァイが馬を呼ぶ笛を吹いた。アンナも倣って、自分の馬を呼び寄せる。設置班の仕事が終盤だということは、アンナの目にもわかった。
蹄の音を響かせ、馬が戻ってくる。

他の班はどうなっているのだろう。アンナは辺りを見回した。その視線がある一点でぴたりと止まる。
アンナたちの班がいる位置から一番近い場所で設置を担当している班だ。
彼らの周りに、巨人が集まりはじめている。護衛班は既に巨人の手の中にあり、辺りに絶叫が響き渡った。
アンナの肌が粟立つ。あの設置班には、マリウスがいる。

戻ってきた馬の背に飛び乗ると、アンナは激しく馬の腹を蹴った。衝撃に驚いた馬が勢いよく駆け出す。


アンナ!!」

背後でリヴァイの声が響いたが、アンナの耳には言葉として届かず、ただの音として受け止めていた。



「マリウス!!」

アンナは力の限り叫んだ。逃げることをよしとせず、果敢に巨人に挑むマリウスに向かって。
マリウスは伸びてくる大きな手の指先を切り落とし、捕まるまいと必死の抵抗を試みる。

――急げ、急げ。
心の中で何度も念じる。訓練中はあれだけ頼もしかった馬のスピードが、今はとても心もとない。

マリウスが宙へと舞い上がる。巨人の背後へ廻り込もうと放ったアンカーは、廃墟の壁に突き刺さった。
ポジションは悪くない。ガスを吹かしてスピードを出し、一気に標的に近付いてうなじを削ればいい。
アンナが安堵しかけたのと同時に、巨人の手がマリウスを鷲掴みにする。

巨人の手の中で、マリウスはとても小さく見えた。マリウスは、アンナが見上げなければならないほど大きいというのに。

アンナは叫んだ。マリウスの名を呼んでいるのか、巨人への威嚇の咆哮なのか、アンナ自身にもわからない。
巨人の歯がマリウスの体を二つに分けたその瞬間、アンナの咆哮は止んだ。悲しみをはるかに超える強い憎しみの感情が全身を駆け巡る。

あらんかぎりの力を込めて、グリップを握る両腕を振った。刀身がグリップを離れ、巨人の両目に突き刺さる。
巨人の口許からこぼれ落ちたマリウスの体は、肩から腰にかけ左側が失われていた。

壁面にアンカーを刺し、視力を失っている巨人のうなじを削ぐ。必要以上に深く、深く刃を食い込ませて。
ガスを勢いよく噴射し、そのまま2体目のうなじを削いだ。
アンナに近付いてくる巨人を睨む彼女の瞳は、憎しみを宿し爛々としていた。

――殺してやる。
迫ってくる巨人に向かって、大きく跳躍しようとした瞬間だった。太陽の光が突如遮られ、辺りに濃い影が落ちる。アンナは上空を見上げた。
アンナの視界に映るのは、自分を見下ろす巨人の顔だった。
目の前の敵に集中しすぎたのだ。視界の外から近付いていた巨人の存在に気付かなかった。

敵が、すぐ傍にいる。
アンナの頭を過る、血塗れの母。体の欠けたマリウス。アンナの体は動かない。

こんなところで、あっけなく終わるのだ。なんて下らない人生だったことだろう。
アンナがそう思った瞬間、巨人の背後を素早く飛ぶ影が見えた。
影が背後を通りすぎた後、巨人のうなじから血しぶきがあがった。飛沫がアンナの頬にかかる。


アンナ

名前を呼ばれ顔を上げれば、地表に下り立つリヴァイの姿がある。

「……リヴァイ……」

思考がうまくまとまらない。起こった出来事全てが、現実味を欠いている。
リヴァイなら、なにが現実なのか承知しているような気がして、アンナは自分でも気付かぬうちに、縋るような目で彼を見上げた。

「……アンナ……お前は自分の役目を忘れたのか?」

リヴァイから返ってきたのは、冷たい目差しと感情を欠いた声だった。

「……役目……?」

「お前が勝手な行動をとったおかげで、お前が護衛するはずだった設置班は危険に晒された」

「……でも……マリウスが……」

「マリウスは最後まで自らの役目を果たそうとした。命を賭して」

私は、そんなマリウスを助けたかったのだ。喉元まで出かかった言葉は、しかし音にはならずアンナの体内で溶けていく。

「感情に任せて暴走したあげく、てめぇどころか仲間まで危険に晒した」

「………」

「お前のせいで無駄に命が失われるところだった」

後方を振り返ると、先程までアンナが護衛していた設置班の面々が疲弊しきった様子で撤退準備をしていた。彼らの命が、失われていたかもしれない。
アンナは何も言うことができず、膝を着いたまま茫然としている。
南西の空に煙弾が上がったが、アンナは気付かない。


「……撤退の合図だ」

リヴァイはアンナに背を向け歩き出す。
地面に放られたままのマリウスの亡骸を抱え、自らの馬に乗せるリヴァイの姿を、ぼんやりと見つめていた。
欠けてしまったマリウスの体が、力無く馬に乗っている。


「いつまでそうしてるつもりだ?」

巨人に食われてぇなら止めねぇが。
馬上の人となったリヴァイの言葉に、アンナはようやくその場から立ち上がることができた。けれど、身体はひどく重たい。
もう二度と飛ぶことができないかもしれない。そんな風に考えてしまうくらいに。


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