時刻は昼過ぎだというのに、辺りは夜のように暗い。厚い雲が太陽を覆い隠し、窓の硝子に大きな雨粒が打ち付け、ばちばちと激しい音をたてている。


「被害報告は以上か」

壁外遠征から戻った調査兵団幹部たちは報告会を行っていた。これらは上に報告するための準備である。兵士長や分隊長の報告内容を吸い上げ、エルヴィンが上へ報告を行う。
上への報告内容は兵団へ与えられる予算に少なからず影響するものだから、報告会には妙な緊張感が漂っている。

「リヴァイ」

報告会の終わりが近付いた頃、エルヴィンがリヴァイの名を呼んだ。

アンナの件だが……初めての遠征にしてはよくやってくれた。討伐数も申し分ない」

「………」

書類に目を落とし、エルヴィンは口許に満足げな笑みを浮かべている。

「……自己判断で勝手な行動をとった。完璧とは言えない」

「勿論。それは君の今後の指導課題だ」

エルヴィンは書類を机の上に伏せ、リヴァイの瞳をじっと見据えた。

「今回の遠征で、アンナは友人を失ったそうだな」

「……ああ」

「……仲間の死を目の当たりにして、二度と戦えなくなる兵士も少なくない」

「………」

エルヴィンを見返すリヴァイの目は、本人が気付かぬうちに鋭いものになっていた。エルヴィンはそんなリヴァイの目に怯むことなく、淡い笑みを漏らす。

「頼むよ、リヴァイ。アンナは既に兵団の戦力だ。簡単に失われては困る」

「わかっている」

それだけを言い残し、リヴァイは席を立った。会議室を出て兵舎の廊下を進みながら、リヴァイは壁外でのアンナの様子を思い出していた。

アンナの戦闘力は、他の兵士たちに比べ抜きん出ている。経験を重ねれば重ねるだけ、もっと強くなっていくだろう。
しかし、だ。仲間の死を目の当たりにしたという精神的衝撃は、さすがのアンナといえどかなりこたえただろうと思う。マリウスの死を前に、冷静さを欠き無謀な行動をした。巨人が傍に迫っているといのに、呆けたまま動かずにいたアンナ
自分に向けられた、哀しみに溢れたアンナの瞳が浮かび、リヴァイは舌打ちを漏らした。

仲間の死を目の当たりにし、精神を病んでしまう人間もいる。エルヴィンが危惧していたように、アンナももう二度と巨人と戦えなくなるかもしれない。仲間の命を残酷に奪っていく巨人を目の当たりにしてしまえば、何よりも恐怖が先立つはずだ。


「オイ、アンナ……」

アンナの部屋のドアを開けるなり、リヴァイは彼女の名を呼んだ。が、誰もいない室内は静まり返っており、リヴァイの声はむなしく響く。
彼自身も気付かぬほどの小さなため息を溢し、リヴァイはアンナの部屋を後にする。
近くを通りかかった兵士のひとりにアンナを見なかったと訪ねる。

「彼女ならさっきすれ違いました。立体機動を装備していたので、訓練場に行ったのではないでしょうか」

兵士の言葉を聞き、リヴァイはその視線を窓の外に向けた。厚い雲に覆われた空からは、相も変わらず雨がしきりと降り続け、強い風が辺りの木々を大きく揺らしている。

こんなところで戦えなくなるなんて、ふざけてやがる。
これから先、もっと厳しい世界が待っていて、それでも戦い続けなければならないのだ。
死んでいった仲間たちの意志を、実現するために。


 

ガスを無駄に噴かすな。もしリヴァイがこの場にいたら、そう注意されていただろうと、アンナはそんなことを考えていた。
幸いなことにリヴァイは報告会で会議室に詰めている。アンナは誰に遠慮することなく、思いきりガスを噴射させる。
体が一気にスピードに乗り、ごうごうと空気を切る音を耳で感じる。大粒の雨は向かい風に乗り、高速で移動するアンナの体とぶつかる度に石つぶてのような衝撃を与え、素肌に当たる雨粒には痛みを覚える。

もっと強い痛みならいいのに。アンナは激しく打ち付ける雨粒を全身で受け止めながら、そんなことを思った。
体に痛みが与えられれば、胸の中をぎゅうぎゅうと締め付けるようなこの痛みを忘れることができるかもしれないのに。


アンカーを高い位置に刺し、ワイヤーの巻き取りと同時にガスを噴射させる。重力に逆らい、体が上昇していく。
不意に、マリウスの姿が脳裏を過った。
穏やかな笑みを絶やさなかったマリウス。地下街にいた私を遠ざけることも、同情することもなく、自然に接してくれた。

馬があと少し早く駆けていたら。もう少し早くマリウスの危機に気付いていたら。
私にもっと力があれば、マリウスを救えたのに。

結局、私は無力なのだ。母を失い、友を救うこともできなかった。
生まれ持った力も、何度繰り返した訓練も、意味がなかった。

アンナはグリップを握る手に力を込めた。雨に濡れ、ぬるりとした手の中で、ミシ、と、グリップが歪む音が小さく響く。
刀身を付け、空を切る。息つく暇さえないほど素早く、何度も何度も両腕を振る。溢れんばかりの憎しみを込めて。


――お前のせいで無駄に命が失われるところだった

リヴァイの声が聞こえた気がした。マリウスを救えなかったうえ、与えられた役目さえ途中で投げ出していた自分を責めるリヴァイの、冷たい目差し。
考えるな。今は、考えたくない。
アンナの移動スピードは、今や本人も体感したことのない速さになっている。上下左右にと縦横無尽に飛び回るその姿は、はたから眺めてみれば、翼を持つ鳥のようであっただろう。

これだけ動いているのだから、訓練を始めたばかりの頃のように激しい筋肉痛に襲われるのではないか。アンナはそんなことを考えていた。
けれど、本当はわかっている。私の体はもう、作られてしまった。どれだけ飛び回ろうと、体はなにも感じないだろう。

ガス射出トリガーを引く。背後で、プシュッと、頼りなげな音がした。
ガス切れだ。もうそろそろ無くなる頃だと思っていた。
逆らい続けた体を取り戻そうと、重力が彼女の体を地上へと引っ張る。アンナは地上から離れた空中で焦ることもなく、遠ざかっていく空を見ていた。
落下する勢いに耐えきれず、木に刺さっていたトリガーが外れる。

このまま地面に叩きつけられれば、怪我を負うかもしれない。
望むところだ。そう思いながら、アンナは目を閉じた。
瞼の裏に、マリウスの最後の瞬間が浮かぶ。恐怖にひきつった顔と、欠けた半身。
肺が重くなり、心臓は痛みを覚えるくらいに堅い。目頭がじわりと熱くなる。

どしん、と大きな音を立てて背中が地面にぶつかった。びりびりと、手足の先まで痛みが広がる。
痛みはあるが、怪我はないようだった。雨をたっぷり含んだ土がクッションになったのだろう。アンナは拳を握った。手の中で、泥が行き場を求めて蠢いている。


「……動きは悪くねぇが……ガスを噴かしすぎだ」

雨音に混じって降ってきた声。目を開けると、リヴァイが傍に立ち、アンナを見下ろしていた。マントも着けず、全身ぐっしょりと濡れている。

「……そう言われると思った」

「………」

「いつから見ていた」

「……お前が剣をめちゃくちゃに振る前からだ」

「この雨の中?……物好きだな」

「てめぇに言われたくねぇな」

「それもそうか……」

アンナは空を見上げた。降り続く雨が痛く、目を開き続けていることは難しい。わずかに顔をしかめた。

「……アンナ

「………」

「お前……後悔しているか?」

「……後悔?」

「調査兵団にいる限り、いつだって仲間の死を目の当たりにしなきゃならない。これから先、お前は多くの死を見ることになる。……まあ、お前が生き抜けばの話だが……」

アンナはリヴァイを睨み上げた。睨まれようとも、リヴァイの表情に変化はない。

「……まさか私を慰めにきたのか?」

冗談じゃない。同情されるのも、慰められるのも御免だった。リヴァイにだけは、絶対に。

「慰める?俺がお前をか」

嘲笑を含んだリヴァイの台詞に苛立ちを覚える。

「言っただろう……調査兵団に入ることは、自分で決めたことだ。後悔なんかしない」

「………」

「ただ……私は……」

自分の無力さに、呆れているだけだ。母も、そして友も失った。生まれもった力は、結局なんの役にも立たなかった。
私の生きている意味は、いったいどこにあるというのだろう。


「調査兵団に入った以上、みな死を覚悟している。命を賭してでも、人類のために戦う覚悟がな」

リヴァイの声が静かに響く。

「マリウスもそうだった。自分の使命を全うするため、最後まで懸命に戦った」

「………」

「お前にできるのは、死んでいった者の意志を引き継ぐことだ。奴らの命を無駄にするな」

「……でも……私は……」

でも、私は無力なんだ。アンナは言葉にできない。弱い自分を認めることは、勇気がいる。
雨が降っていてよかった。アンナはそう思った。目から流れる涙も、この雨に紛れて見分けがつかなくなっているだろう。


「やれ、アンナ。お前にはできる」

リヴァイの声は、確信に満ちている。
この男は、いつもこうだ。私の力を疑うことなく、強くあることを望んでいる。


「……リヴァイ」

「……なんだ」

「リヴァイも……こんな気持ちになるのか」

リヴァイは強い。私よりも、ずっとずっと。
それでも、今向けられた言葉はまるで、私が感じているこの無力感を知っているかのように聞こえてしょうがなかった。
アンナの問いに、リヴァイは答えない。何を言うでもなく、じっとアンナを見つめている。


「……チッ……体中べとついて気持ち悪い」

暫しの沈黙の後、心底嫌そうな顔をして、リヴァイが言った。

「兵舎に戻るぞ」

歩き出そうとしたリヴァイだったが、足を止め、アンナを見やる。アンナは地面に仰向けになったまま、動こうとしない。

「おい……」

訝しそうに顔を覗くリヴァイに向けて、アンナは片手を上げた。
泥にまみれたアンナの手を凝視し、その意味を理解したリヴァイは、舌打ちを漏らしながらも、彼女の手を握った。
リヴァイの腕で起こされ、アンナはゆっくりと立ち上がる。

「戻るぞ」

それだけ言って、リヴァイは先立って歩き始める。アンナの手を握ったせいで泥の付いた自らの手を拭いながら。

負傷しているわけではないのだ。ひとりで起き上がることもできた。それでも、リヴァイに起こされることを望んだのは何故だろうと、アンナはリヴァイの背中を見つめながら思う。
慰められることも、同情されることも嫌だと思った。けれど心のどこかで、ほんの少しだけ、望んでいたのかもしれない。アンナ自身、そんな自分に気付いていなくとも。

肺の重みも、心臓の痛みもなくならない。それでも、冷たかった体が仄かに熱をおびたような、そんな気がする。





翌日。目覚めたアンナは着替えを済ますと、鏡で自分の顔を確認した。
目の腫れや充血のないことを確かめ、その足でリヴァイの部屋に向かった。
ドアをノックすることは、いつもの癖で忘れてしまった。机の前に座っていたリヴァイも、顔をしかめるだけで咎めることはしない。


「リヴァイ兵士長」

アンナが階級でリヴァイを呼ぶのは初めてのことだ。呼ばれたリヴァイも訝しく感じたのだろう。方眉が僅かに動く。

リヴァイの視線が自分に向けられているのを感じながら、アンナは姿勢を正す。右手で拳を作ると、左胸に添えた。それは紛れもなく、敬礼である。
リヴァイの目が僅かに見開かれるのにも構わず、アンナは息を大きく吸い込む。


「自分は死んでいった仲間の為に……そして、今を生きる仲間の為に、心臓を捧げます!」

生まれ持った力をもて余していた時代は終わった。
マリウスに教えられたように、公なんて曖昧なものに心臓を捧げる気にはなれないけれど。でも、友人の為になら捧げられる。救えなかった命に報いるために、生きているものを守るのだ。
自由の為に戦う人間の命を無駄にはしない。私の力は、兵士になるための力だ。

強い意志のこもったアンナの瞳。
リヴァイはそんな彼女の瞳を、まっすぐ見返していた。


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