壁外調査から一夜明けてもなお、兵舎内は俄に慌ただしい。
遺体の処理及び遺族への報告など、皆落ち着きなく過ごしている。
アンナは怪我人の手当てにあたっていた。
看護兵だけで怪我人全てを手当てすることはままならない。壁外調査から戻った後は、いつもこうだ。
広めの部屋を臨時の医務室とし、多くの兵士が布一枚引いただけの簡素な寝床に体を横たえている。
この部屋には重傷者を集めていた。巨人に体の一部を奪われながら、奇跡的に生還した者。内蔵を損傷している者……。
命を懸けて戦った者たち。どれほどの者が無事命を繋ぎ止めることができるのか。希望は儚くとも、必死の看病が続けられている。
「……――い……」
包帯を取り替えていたアンナの耳に届く、負傷した兵士の声。痛みに堪えきれず漏らした呻き声とは少し違う。一点を見つめ、何かを伝えようと開いた口許から、ぜえぜえという吐息ばかりが漏れている。
「どうした。何が言いたい」
目の前の負傷者に集中していると、周囲の音はいつのまにか排除される。それでも声は聞き取れない。
アンナは耳を口許まで近付ける。弱々しい息が直接耳にかかるほどに。
「……く……くや……しい……」
「………」
「戦い……たかった……最後まで……」
「……わかってる。みんなわかってるから」
「……ああ……」
アンナが深く頷くのを見て、兵士は安堵したように目を閉じた。薄く開いたままの口許からは、もうなにも聞こえない。
周囲の音が戻ってくる。治療器具のぶつかる音や兵士たちが歩き回る音。負傷者の呻き声。
アンナたち看護担当は慌ただしく室内を移動している。対して負傷者は皆臥せったまま、命の灯を儚く揺す。
不思議な空間だ。アンナはそう思った。
生と死が混在する空間。自分が生者なのか死者なのか、わからなくなる。
「アンナ、交代の時間だ」
背後から声を掛けられ、我に返る。
後を頼む。交代の兵士にそう言い残し、アンナは部屋を後にした。
通路から見える兵舎の中庭で、大きな炎が揺れていた。
もはや壁外調査後の見慣れた光景になってしまった。あの炎の中に、勇敢に戦った兵士たちが大勢いるのだ。
「ナナバ」
炎に吸い寄せられるようにして、アンナは中庭に足を運んだ。
かつての仲間を見送るため、数名の兵士が炎を囲んでいる。兵士の中のひとりに、アンナは声を掛けた。
調査兵団にやってきたばかりの頃、周囲にいる多くの兵士と馴染むことができなかったアンナも、2年の時が経ち、気軽に声を掛けることのできる人間ができた。元々が社交性の乏しい性格だから、決して多くはないのだが。
「アンナか。看護当番は終わったのかな?」
アンナに声を掛けられ、ナナバは淡い笑みを浮かべた。とても寂しそうな笑みだと、アンナはそう思った。
「……ひとり看取ってきたところだ」
「そう……」
会話は途切れ、二人は揃って炎を見つめる。
「……ナナバ」
「うん?」
「それ、なに」
ナナバの手には、茶色い小瓶があった。アンナは瓶に視線を向けながら問い掛ける。
「ああ、これはお酒」
「……そんな高価なもの、よく買えたな」
「私が買ったわけじゃないんだよ」
「………?」
「今回の遠征で死んだ同じ班の仲間が、よく言ってたんだ。いつかみんなで酒を飲みたいって」
「……そいつの酒か」
「遺品整理をしてたら、出てきたから」
答えて、ナナバは瓶を口許へ運んだ。酒を飲み下すたび、ナナバの喉が小さく上下する。
「アンナも飲んでよ」
差し出された瓶を受け取り、アンナは一口二口と、勢いよく煽る。
喉の奥が熱い。どうやらアルコールの強い酒らしい。
すごくいい飲みっぷりだね。隣でナナバが笑いながら言った。本来なら、こんな風に煽って飲むのではなく、少しずつ味わうように飲む酒なのだろう。
瓶が軽くなったところで口から離す。隣に視線を向けると、ナナバが小さく頷いた。アンナは数歩足を進め、燃え続ける炎にできるだけ近付く。
手にしていた瓶を炎の中に放り入れる。酒が炎に紛れた瞬間、ボッと大きな音をたて、続いて瓶の割れる音がした。
「どこいくの?アンナ」
燃えさかる炎に背を向け中庭を後にしようとするアンナを、ナナバが呼び止める。
「……訓練場」
「もうすぐ日が暮れるけど?」
「少し暗い程度なら支障ない」
「お酒飲んだ後で?」
「酒にも強いから平気だ」
やれやれと言わんばかりに首を振るナナバを残し、アンナは自室へと向かった。
立体機動装置を身に付け再び表へ出たころには、太陽が傾きはじめていた。じきに暮れてしまうだろう。
アンナは構わず、訓練場に着くなり手近な木にアンカーを刺し、宙へと舞い上がった。
―――投げやりな動きは止めろ。
昨日リヴァイに言われたばかりの台詞を忘れてしまったわけではない。けれど、無茶と言えるほどの動きをしていなければ身体が浸食されてしまいそうになる。怒りと憎しみ、悲しみと恐怖に。
生者なのか死者なのか、わからなくなって当然だ。
戦い続けるかぎり、常に死は背中合わせ。前を見続けて戦うその裏側には冷たく暗い死が潜んでいて、いつ表と裏が入れ替わってもなんらおかしくはない。半分生きて、半分死んでいるようなものだと、アンナは思う。
ガスを吹かし、トップスピードにのせる。目を閉じると甦る、遺体を燃やす揺れる炎。
私も、いつかはあの炎の中に収まることになる。いや、炎の中に収まることができれば、まだ運がいい。巨人の腹の中で最後の瞬間を迎えるほうが、当然の終わり方と言えるだろう。
死ぬことは、構わない。心臓は捧げられたのだ。
けれどマリウスや、多くの兵士たちが望んだ壁の向こう側を見ることなく死んでしまうのは、怖い。彼らの願いを叶えることもままならず、自分も託す側になってしまうことが怖いのだ。
瞼にぎゅっと力を入れ、目を見開く。生い茂った木々に囲まれ、辺りは薄暗い。
目前に迫った木を避けようと、片足に重心を移動する。が、重心の掛け方を誤ったらしい。思ったように身体の移動ができず、肩が太い枝にぶつかった。
枝が折れる音が、静かな訓練場に響く。突然の痛みにアンナは顔をしかめながら、ぶつけた肩に手を添える。
地上に降り立ち、ジャケットの上から肩をさする。痛みはあるが、酷くはない。少し腫れるかもしれないが、骨に異常はないようだから問題はないだろう。
握っていたグリップを納めながら、アンナはため息を吐いた。
わずかにぼんやりする頭。重心移動をヘマしたのは、さっき飲んだアルコールのせいだ。
アンナは舌打ちを漏らした。
腹が立った。自分自身の不甲斐なさと、他人より多少頑丈な身体がとても忌々しい。
「……あのクソガキ……」
リヴァイが呟く。場所は会議室からさほど離れていない通路だ。窓の外を睨むリヴァイの視線の先には、訓練場がある。
訓練場でひとり飛び回るアンナの姿を見つけ、舌打ちが漏れた。
投げやりな動きは止めろと告げたのは昨夜だ。僅か1日足らずで無視されては、どんなに気の長い人間でも腹が立つだろう。
「リヴァイ!さっきの会議の資料なんだけど――」
「………」
後ろから自分を呼ぶハンジの声が聞こえても、リヴァイはじっと窓の外を睨み続けていた。
訝しげに顔を覗くハンジがを視線の端でとらえるも、リヴァイは黙ったままでいる。
「心配?」
ようやく視線を移せば、妙な笑みを浮かべるハンジの顔があった。
「……誰があんなガキの心配なんかするか」
「別にアンナのことだなんて言ってないだろう?私は『次の壁外調査の日程が決まらなくて心配?』って聞いたつもりだったんだけどなぁ」
ニヤニヤと笑うハンジを睨み付ける。彼女が手にしていた資料を乱暴に奪いとると、リヴァイはその場を後にした。
アンナに無茶しないように伝えといてね。背後から掛けられたハンジの声を無視し、歩き続ける。
自室の前を通りすぎ、さらに足を進めた。
リヴァイが歩みを止めたのは、アンナの部屋の前だった。
「おい、アンナ――」
ノックを省き、ドアを開ける。
リヴァイの視界に飛び込んできたのは、アンナの真っ白な背中だった。
「……覗きの趣味でもあるのか、リヴァイ」
上着を纏っていないアンナは、素肌にさらしだけの格好だった。
特に慌てる様子もなく、首だけを捻ってリヴァイをみやると淡々とした口調で言った。
「ガキの裸見て喜ぶような趣味はねぇよ」
「なら安心だ。兵士長の趣味が覗きだなんて、士気に影響があるかもしれない」
「……お前が黙ってりゃ問題ない」
「口止めしたいのなら賄賂がいるぞ」
「そんなことより、もっと手っ取り早い方法があるだろう」
「さすがのリヴァイでも、私を殺すのは苦労すると思うけど」
「……そうかもな」
リヴァイは壁に背を預け、羽織ったシャツのボタンをとめるアンナの後ろ姿をぼんやりと見ていた。
下らない会話を交わす間も、先程目にしたアンナの背中が瞼の裏に浮かんで離れない。
兵士として鍛えられ、筋肉のついた肩まわり。しかし腰や腕の細さは自分のそれと比べると、とても頼りなさげに見えた。
真っ白な背中にあるベルトの痕は、アンナが兵士として過ごしてきた年月を語っているようだった。
「それで何の用?」
着替え終えたアンナが振り返る。
シャツのボタンが上から3つ、外れていた。胸元からサラシが覗いている。
「……酒臭い」
アンナから微かに匂う酒の気配に、リヴァイは顔をしかめた。
「遺品の酒だ。……いつかみんなで酒を飲むのが、そいつの希望だったらしい」
「そうか。……それにしても、ガキが酒を飲むな」
「だから、ガキじゃないと言ってる」
不服そうな目でリヴァイを睨むアンナ。その時、不意にリヴァイの目がアンナの衿元に留まった。
リヴァイの視線に気付いたアンナが、身を固くする気配。数歩足を進めてアンナに近付くと、シャツの衿を掴み、乱暴に引っ張る。
思わずよろけそうになったのを、アンナは足に力を込めて堪えたようだった。じろりと恨めしそうな目を向けるアンナを無視し、リヴァイはさらけ出された彼女の肩を凝視する。
「……アンナ」
「………」
「この怪我はどうした」
アンナの肩にある傷。激しく打ち付けながらも、擦れたような傷だった。傷を負ってからまだそう時間は経っていないように見える。
「………」
「どうしたと聞いている」
「……――った」
「あ?」
「訓練場で、木にぶつかった」
「俺が昨日、なんと言ったか覚えているか」
「……『投げやりな動きはやめろ』」
「お前は、それを無視した」
「してない。酒を飲んでたから、バランスを崩しただけ」
「酒を飲んだ状態で立体機動をするなんざ、投げやり以外のなんだってんだ」
リヴァイの台詞に言葉を詰まらせるアンナだったが、その瞳は相変わらず彼を真っ直ぐ見つめていた。
「……痛みもないし、こんな傷、怪我のうちに入らない」
「……ほう……」
僅かに目を細め、リヴァイは空いた手をアンナの肩に添た。アンナが後退しようとする素振りを見せたが、襟首を掴まれ叶わない。
肩に添えた手にほんの少し力を入れ、傷口を押す。その瞬間、アンナが唇をぎゅっと噛むのを、リヴァイは見逃さなかった。
「痛むんじゃねぇか」
「痛くない。全然痛くない」
「………」
「………」
アンナは目を逸らさない。
無言の睨み合いが続くなか、リヴァイのなかに再び苛立ちが募る。
壁外調査から戻ったアンナが訓練場で繰り返す、自らの危険を省みない動き。
理由はわかっている。アンナは失われた多くの命やそれらを救えなかった不甲斐なさを、身体を動かすことでどこかに追いやろうとしているのだ。
そうすることでしか、戦い続けることができない。危うげにゆらゆら揺れながら、兵士として強くなってきたアンナ。
命令に従わなかったことに苛立っているわけではない。
腹を立てているのは、アンナの独りよがりな意地に対してだ。
どれだけ優れた身体能力を持っていようと、数多くの巨人を討伐していようと、アンナは生身の人間だ。
細い腕をしたクソ生意気なガキのくせに、一人前だといいたげな顔で俺の前に立っている。
泣き叫びたいほど傷付き、暴れだしたいほど怒っているというのに。それでも俺の前では、冷静を装った仏頂面。
あの顔を見ていると、どうしようもなく腹が立ってくる。
泣き叫びたいなら泣けばいい。暴れだしたいなら、好きなだけ暴れればいい。
ひとりで抱え込もうとするには大きすぎるそれらの荷を、アンナは意地でも手放さない。
「……アンナよ」
「……なに」
幾分か刺の抜けたリヴァイの声音につられ、アンナの身体の強張りもほどけている。
リヴァイを見つめるその瞳に、柔らかな色が差す。
泣けばいい。そんなことを言ったところで、アンナが素直に泣くとは思えない。
弱音を漏せば自分の力が弱まるとでも思いこんでいるのだろうか。アンナの瞳を見つめながら、リヴァイはそんな風に思った。
「……いや」
掛ける言葉を見つけられず、リヴァイはアンナの衿から手を引いた。
「……薬を持ってくる。大人しくしてろ」
泣かせてやることも、暴れさせてやることもできない。懸命に戦い生き残ってきた部下に、これからも共に戦い続けるであろう仲間に、薬をつけてやることしかできない。
蝋燭だけが頼りの薄暗い廊下で、リヴァイは誰に知られることもなく、ひっそりとため息を漏らした。
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