アンナが調査兵団の地下牢から出されたのは2日後のことだった。
与えられた食事をゆっくりと、しかし確実に自分のものにしていく。心臓が大きく収縮し、血液が体中を巡るのを感じながら。
リヴァイに「出ろ」と命じられ、開けられた鉄柵の扉を潜る足取りは、自分のものとは思えないほど弱々しかった。まだ体力が完全には戻ってきていないのだろう。

「……どこに行く」

リヴァイに指示されるまま建物を出る。表には二頭の馬が用意されていた。
アンナの問い掛けに答えはない。問い掛けを無視しリヴァイは「馬術はできるのか」と、アンナに尋ねた。アンナは頷く。まだ母が生きていた頃、農作業に馬を使っていたから乗ることはできる。それが馬術と言えるようなものかどうかは不明だが。

リヴァイの後に続き移動する。馬に揺られることも久しぶりだった。
いま逃げ出したらどうなるだろうか。馬の腹部を蹴り、手綱を引くことは簡単なこだと、先を行くリヴァイの背中を見つめながら考える。けれど逃げきることはできないだろう。油断しているかのように見えるあの背中は、後ろでなにかが起きればすぐに行動を起こせるよう、緊張しきっている。

男にしては小柄な体付きだ。あの体のどこに自分を這いつくばらせるだけの力があるのだろうとアンナは思う。そしてそれがくだらない思考であることに気付く。自分も同じだ。栄養の行き渡らないやせっぽっちの体を見て、油断してきた大人たちを数多く這いつくばらせてきたのだ。外見的な印象など、なんの意味もない。


暫く馬を走らせた後、リヴァイがゆっくりとスピードを落とす。アンナもそれに倣い、馬を止める。目の前にある建物に目を向けながら、「ここは?」と、本日二度目の問い掛けをした。

「調査兵団の本部だ」

目を合わせることもなく、リヴァイは答える。馬を降り、ちらとアンナに視線を向けただけで、すぐに歩き出した。
着いてこいということだろう。それにしても、言葉が足りなさすぎる。胸の中でだけ呟き、アンナはリヴァイの後を追う。
見知らぬ建物のなか、時折すれ違う兵士たちは、リヴァイに敬礼をしたり頭を下げたりした後で、アンナに対し訝しげな視線を向けた。

連れてこられたのは簡素な部屋だった。ベッドと小さなテーブル。壁に掛けられた服はリヴァイが身につけているそれと同じだ。

「お前の部屋だ。……すぐに着替えろ」

それだけを言い、リヴァイが部屋の扉を閉める。アンナは着ていたものを脱ぎ、用意されていた服に袖を通す。全体的に細身な作りをしており、締め付けられるような感覚が些か気に食わない。
着替えを済ませて部屋を出ると、壁に背中を預けていたリヴァイがアンナの姿を一瞥した。何を言うでもなく歩き始めるリヴァイの後に続く。

前を歩いていたリヴァイが不意に立ち止まった。「エルヴィン、入るぞ」と声を掛けドアノブを捻る。自分はどうするべきなのか分からず立ち尽くしているアンナを振り返り、「入れ」と促す。
リヴァイに従い部屋の中へ足を踏み入れる。大きな窓と木製の使い込まれた机。机の前に腰掛けた人物はアンナの顔を見て、口許に淡い笑みを浮かべた。

「リヴァイから話は聞いているよ、アンナ。私は調査兵団団長のエルヴィン・スミスだ」

エルヴィンは立ち上がり、手を差し出す。アンナは彼の動作が何を意味しているのかすぐに読み取ることが出来ず、その手を握り返すまでに数秒を有した。

「君が立派な兵士になることを期待している」

「…………」

握手を交わした数秒間、エルヴィンの目がアンナから逸らされることはなかった。まるで心の奥底まで測ろうとしているようだと、アンナは思った。だから彼女も、エルヴィンの目をじっと見つめ返した。その奥底を測るようにして。

「それで……彼女の訓練はいつから始めるつもりだ?リヴァイ」

手が離れると、エルヴィンはリヴァイへと顔を向ける。

「今日からだ」

「おい……訓練ってなんのこと」

エルヴィンの問いに答えるリヴァイ。矢継ぎ早に、アンナが言葉を紡ぐ。

「……確かにお前の身体能力はすぐれている……が、それだけで巨人には勝てない」

リヴァイの鋭い目がアンナへと向けられる。

「わざわざ無駄死にさせるためにお前を地下から引っ張り上げたわけじゃないからな……巨人を倒せるだけの技術を身に付けるまでは話にならん。……それとも、このまま壁外へ出て巨人の胃袋に直行するか……?」

鋭い目が、訓練を拒むことは許さないと語っている。アンナは口をつぐんだ。

「行くぞ」

踵を返すリヴァイ。アンナは慌てて後を追う。
訓練なんて、こなすことは容易い。アンナはそう思っていた。


 

訓練を始めて1週間が経過した。それはリヴァイが予想していたよりも順調に過ぎていった。
一番最初に始めたのは立体機動の初歩訓練だった。アンナは見事にこれをこなした。訓練二日目にはすでに立体機動装置を着用しての訓練に移った。実戦に出られる程ではないにしろ、確実に自分のものにしているように思う。常人では考えられないようなスピードで。
技巧術についていえば、アンナにとって不得手な分野であるようだった。緊急時のメンテナンスのような細かい作業になると眉間に皺を寄せているのを、リヴァイは何度か目にしていた。それでも記憶力は然程悪くはないようで、何度も繰り返すうちに各部品の名称を覚え、正しい順序でメンテナンスを行えるようになっている。

リヴァイにとって意外だったのは、訓練中アンナが一度として不平不満を洩らさずにいることだった。従順といえるほど、黙々と訓練に勤しんでいる。

初めてアンナを見かけた地下街で、リヴァイの印象に残ったもの。類い稀なる身体能力と、世界中を憎んでいるかのような、禍々しい瞳。
いつかどこかで目にしたことのある瞳だった。
自分の置かれた境遇を嘆いているわけではない。自らの力を持て余しながら、出口の見えない暗闇をさ迷うなかで生まれる、憎しみと怒り。

アンナを地下街から引き上げ調査兵団に加えるとエルヴィンに告げた時、彼はリヴァイに対し「出来るのか?」と問い返した。
リヴァイは「出来る」と、即答した。あのガキのなかにある憎しみと憤りを刺激すればいい、と。
それにしても、ここまで従順になるとは思わなかった。(捕らえた当初、相手が頑なに拒むであろうことは予想していたが。)

痛みを与えたことが効果的だったのかもしれない。あるいは………。


「……随分大人しいな」

この日の訓練を終え、自室に下がることを許可すると、アンナは言葉を発することなくその場を後にしようとする。もっとも二人の間で訓練以外に言葉を交わされたことは一度としてなかったのだが。

「………別に」

リヴァイの言葉に応えるアンナ。ちらりとリヴァイを見やり、すぐさま視線を外す。
これ以上交わす言葉はない。そう言いたげに素早くリヴァイに背を向ける。
違和感を覚えるほど真っ直ぐ伸びた背筋と、妙に力の籠った足取り。背後からの視線を意識している。
リヴァイはアンナの背中を見ながら、小さく吐息を漏らした。


 

訓練を終えたアンナは、その足で自室に向かった。着替えもせず、流した汗を拭うこともなく直ぐさまベッドに倒れ込む。

調査兵団に属することを選択した。その時はすぐに実戦へ赴くものだとばかり思い込んでいたアンナだったが、彼女の予想とは裏腹に、待っていたのは地道な訓練の数々だった。
基礎的な体力作りとしての兵站行進や筋肉強化運動はもちろん、馬術や技巧術、格闘術まで訓練内容に含まれていている。アンナはこの1週間、日が昇るより早く目覚め、辺りが見えなくなるほど夜が更けるまで訓練を行っている。それらは苦行と表現しても差し支えないものであっただろう。しかし、アンナは持ち前の身体能力で、着実に訓練内容を自らの体に収めることに成功していた。
ただひとつ、全身の筋力と繊細なバランス感覚を必要とする立体機動の訓練は、始めて経験する体の負荷を意識させられた。使ったことのない(もしくは使うことを意識したこのない)筋肉を酷使し、一瞬の気の緩みも許されない。

訓練中はリヴァイがアンナを指導している。アンナにとっては指導というより監視に近い。
たいていの場合リヴァイは訓練内容を告げた後、ただじっとアンナの様子を見ているだけだ。明らかに経験不足である立体機動の訓練に際しても、必要最低限の言葉しか与えない。

――ガスを無駄に使うな

――空中でのバランスがなっていない

――移動に時間が掛かりすぎる

与えられる言葉は確かに的を得ていると思う。的を得ているだけに、腹立たしく感じもする。
それだけ見る目があるのであれば改善法を与えてくれてもいいはず、とアンナは思う。その一方で、リヴァイの手を借りずともやりこなして見せるという気持ちも、彼女の中に存在する。
自分のほうが力が劣っていることはわかっている。それでも与えられた屈辱感に報いたいという思いがあるのだ。


『……随分おとなしいな』

今日の訓練を終えた後、珍しくリヴァイに声を掛けられた。この1週間で初めてのことではないだろうか。
アンナは『別に』と、簡潔な言葉で返した。声を掛けられたことに戸惑ったわけでも、リヴァイへの嫌悪感からでもなんでもない。疲弊しきっていて余計な口をきく気にはなれなかったのだ。

訓練を始めてから2日目には既に異変を感じていた。足の筋肉が僅かに重かった。アンナはそれを慣れない立体機動の訓練を行ったことによる、軽い筋肉痛だと思った。翌日には治まっているだろうと。しかし翌日痛みはさらに強くなり、足だけでなく腕にも同じ痛みを覚えるようになった。
痛みはいっこうに引く気配を見せず、ますます酷くなっていく。訓練を行うことはもちろん、歩くという動作さえままならないほどに。
それでもアンナが苦痛を訴えることなく平静を装っていたのは、リヴァイに対する強がりだった。弱った自分をこれ以上リヴァイに晒してしまうことが、アンナには我慢ならない。


「……っ……うぅ……」

ベッドの上で脚を抱える。アンナは痛みに耐えきれず呻き声を漏らした。
全身の筋肉が張り裂けるような鈍痛。自分の体がこんなに脆弱だったなんて。痛みと不甲斐なさに、アンナの目が滲む。



「オイ、入るぞ」

響いた声に、思わず体がびくりと弾む。
体勢を整える間さえ与えず、リヴァイが部屋のドアを開いた。

「……入っていいなんて言ってない」

ベッドに横たわったまま、ほぼ無断に近い形で侵入してきたリヴァイを睨む。

「…………」

「……なんの用。用がないなら出ていって」

体中が痛い。悟られないようにと思うのに、声は低く、体は動かすこともできない。
リヴァイは黙ったままアンナを見下ろしている。リヴァイの視線が痛い。

「痛むんだろう……隠しても無駄だ」

「………なんで気付いた」

「歩き方を見ればわかる。完璧に隠してたつもりかもしれねぇが、不自然すぎる」

「…………」

アンナは何も言うことができなくなってしまう。そんな彼女に構うことなく、リヴァイはゆっくりとした動作でベッドの端に腰を下ろした。

「脚出せ」

「………は?」

言っている意味がわからない。アンナは思いきり顔をしかめる。

「さっさと言う通りにしろ」

リヴァイの手がアンナの足首に伸びる。同時に強い力で引かれ、アンナは呻き声を漏らす。

「っつ……!何を……」

「いいから黙ってろ」

リヴァイの手が、足首からふくらはぎへ、指で筋肉を解すようにしながらゆっくりと移動していく。
然程力はこもっていない。にもかかわらず、リヴァイの指が筋肉に食い込んで酷く痛む。アンナは反射的に自由になっている足で、リヴァイの腕を蹴りを入れる。
しまった。今の蹴りは謂わば不可抗力。それでも倍以上の痛みになって返ってくるだろう。アンナはそう覚悟した。だがリヴァイは眉間に皺を寄せただけで、何も言わない。

「…………」

「…………」

「……なんで」

「なにがだ」

「なんでこんなことする」

リヴァイからの返答はない。手だけが、ゆっくりと動いている。

「……はじめは誰でもこうなる」

手を動かし続けたまま、リヴァイが口を開いた。

「立体機動で使う筋肉は今まで使っていたものとは違う。体内組織が出来上がれば痛みも引くだろう」

「………」

「明日からは自分でやれ。痛みも少しは和らぐ」

「……あんたも、痛くなったのか」

「……最初はな」

「……そうか……」

アンナは目を閉じた。脚の筋肉を解すリヴァイの指の動きを記憶しようと意識する。自分のそれよりも幾分大きな手だ。
こうしていると、不思議な気分になる。
お世辞にも好意を抱いているとは言えない相手に触れられているというのに、何故かしら嫌悪感は覚えない。
リヴァイに触れられた脚の痛みも、いつの間にか和らいでいた。本当に、不思議なことだ。


 back