朝目覚めると、どうしようもなく苦しめられていた体中の筋肉の痛みがだいぶ和らいでいた。
寝間着を脱いで兵服に着替える。日常的な動作を行うのに問題はないようだった。


「入るぞ」

部屋のドアが開く。どうしてこの男はノックのひとつもできないのだろう。涼しい顔で部屋に入ってきたリヴァイを見ながら、アンナは小さく息を吐いた。

「立体機動装置は装備しなくていい」

ベルトを巻き終え、立体機動装置に手を伸ばそうとしていたアンナに、リヴァイが言う。

「………」

「俺はこれから会議に行く。お前はその間これを読んでろ」

リヴァイが差し出したのは数冊の本だった。大きさも厚みも不揃いな本。紙が日に焼けて黄ばんでいる。

「……これは……?」

差し出された本を受け取り、適当に選んだ一冊をぱらぱら捲りながら問うアンナ

「兵法書と今までの壁外調査の報告書……巨人の生体についての研究結果だ」

「……ふうん……」

どうやらこれは巨人の研究結果を纏めた本のようだ。後ろ姿の巨人の絵が描かれ、うなじの部分に丸がついている。

「頭に叩き込んでおけ……実践で必要な知識だ」

「………」

アンナは視線を上げることなく、真剣な目差しで本を見つめたままだ。

「………これ、なんて読む」

会議に向かうべくドアノブに手を掛けたリヴァイを呼び止めた。自分では判別できない言葉を指し示すと、リヴァイが本を覗き込んだ。

「……『夜間行動は確認できない』」

「こっちは」

「『消化器官は存在しない』」

「へえ……」

「読めねぇのか」

「簡単な言葉しか。読み書きなんてやったことない」

幼いころから病弱な母の変わりに働いていたアンナにとって、勉学はいつも遠いところにあった。学の無いことを不便だと思ったこともなければ、必要だと思ったこともない。自分には、力があったから。

「………まずはそこからか」

「……悪かったな、学が無くて」

「学の無いヤツなんざそこら中にいるだろう。……とりあえずついてこい」

自嘲的な台詞だったのだが、リヴァイには通じなかったらしい。
部屋を出ていくリヴァイ。「アイツしかいねぇな」と、独り言を呟く男の背中を追う。


「おい、ハンジ」

リヴァイの向かった先は階級兵士の私室だった。ドアをノックしながら部屋の主とおぼしき人物の名を呼ぶ。
ノックできるんじゃないか。そんなことを考えてながら、アンナはドアを見ていた。やがてゆっくりとドアが開く。

「あれ、リヴァイ。今日は会議じゃなかったっけ?」

中から現れた人物は、リヴァイの姿を見るなりそう言った。

「ハンジ……お前今日の予定は」

「んー……今までの研究結果を纏めようかなと思ってたんだけど……何か用事かい?」

「コイツに読み書きを教えてやれ。俺は会議がある」

ハンジと呼ばれた女はアンナに視線を向ける。目が合うと、ハンジは朗らかな笑みを浮かべた。

「ああ!君がアンナ?私は分隊長をやってるハンジ・ゾエ。よろしく」

「……どうも……」

調査兵団に入って、幹部に合うのはこれで三度目になる。団長のエルヴィンとも、隣に立つリヴァイともタイプが違うようだ。

「教えるのは構わないけど……どこから教えればいい?」

アンナと握手を交わしながら、ハンジがリヴァイに問い掛ける。

「取り合えず兵法書と壁外調査の報告書を覚えさせる必要がある」

「巨人の生体は?」

アンナが口を挟むと、リヴァイは冷めた視線を寄越し、ハンジは瞳に輝きを宿した。

「なんだ!巨人の生体なら私の得意分野だよ!」

「そうなのか」

「ああ!大丈夫。私が研究してきた内容も含めて、しっかり教えるからね!」

そう言ってハンジはアンナの腕を引き、部屋のなかに招じ入れた。
閉まったドアの外、廊下に残されたリヴァイがため息を吐いたことを、無論アンナは知らない。





ハンジの部屋から解放されたのは夜も更けた時刻だった。アンナは廊下の窓から夜空に浮かぶ月を見上げ、深々とため息を吐いた。

ハンジの口から語られる巨人についての実験とその結果は、アンナにとって興味深いものであった。
これから戦うことになる巨人。その弱点がうなじであるということはリヴァイとの立体機動訓練時に教えられていた。アンナの興味を引いたのは、巨人の大きさの違いや奇行種という存在。人間だけを食すという巨人の根本的な行動から、その生まれ。いまだ解明されていない部分も多いが、必ず解き明かして見せるのだと、ハンジはそう締め括った。
締め括った後で、これまでハンジ自身が行ってきた実験と、過去のそれとを比べる内容の話を始めた時、アンナはさすがに辟易していた。
いくら興味深い話といっても、何度も聞かされれば飽きてくる。ハンジの熱弁が続けられるなか、アンナは力の抜けた相槌を打っていた。


そういえば、昼食も夕食も食べ損ねている。しかし食欲はない。
私はただ話を聞いていただけだからいい。あのハンジという女はあれだけ熱のこもった弁を長々と続けて、腹が減ったりしないのだろうか。どこかぼんやりとした頭でそんなことを考えながら廊下を進む。
自室へ戻る途中、ひとりの兵士とすれ違った。

「やあ……アンナ……だったよね」

声を掛けられ、アンナは相手の顔を覗き込む。
誠実そうな瞳でじっとアンナを見返している青年。歳はアンナとそうかわらないだろう。アンナは青年に見覚えがあった。

「……地下牢にいた……?」

囚われていた地下牢で、リヴァイが離れていた間も見張りを続けていた兵士。遠慮がちな声を掛けてきた相手であることを思い出す。

「僕はマリウス。よろしく、アンナ

差し出された手を握り返しながら、小さく頷く。今日は握手をすることが多い日のようだ。

「調査兵団にはもう慣れた?」

アンナはそれについて考えてみる。
調査兵団という組織に自分が馴染んでいるという感覚はない。まだ実戦にも出ておらず、訓練ばかりだ。こういう状況で慣れ不慣れを判断するのは難しい。

「……さあ……どうだろう」

「君はまだ入ったばかりだしね。ゆっくり慣れていけばいい」

マリウスはアンナの返答に対し、特に不満はないようだった。愛想の良い笑顔を浮かべている。

「ずいぶん健康的になったね。顔色もいい」

「………」

「あの時は死んでしまうかと思ってヒヤヒヤしたよ」

地下牢で与えられた食事に手を付けず、衰弱していた時のことを言っているのだろう。
なんと答えればいいのかアンナにはわからなかった。善意が自分に向けられることになれていない。

「じゃあ、おやすみ」

黙ったままでいるアンナを前にしてもなお、マリウスは表情を崩さない。

地下街での生活とは違う。常に警戒心を抱き 、他人との関わりを避け、ぶつかっては傷付けた。臆病で獰猛な獣のように。
私は、組織に属するようになった。ここでは、すれ違う人間を傷付けるつもりでいること自体、おかしなことなのだろう。
そういう場所に馴染めるだろうか。私もかつてはマリウスと同じ側にいたはずなのに、地下街での生活が体と心に染み付いてしまっている。

アンナは小さくなっていくマリウスの背中を見送り、再び歩き出した。




「……あのメガネ女、読み書きなんてちっとも教えてくれなかった」

例によってリヴァイがノックもせずに部屋を訪れる。ベッドに腰掛け膝の上で本を広げていたアンナは、彼の姿を認めるなり言った。リヴァイに命じられた内容を遂行できなかったと伝えるために。

「本の内容なんかそっちのけで、ひとりでずっと巨人について喋ってた」

「……まあそうだろう」

リヴァイの反応から察するに、ハンジの行動は予想されたものだったのだろう。

「……話の内容は面白かったけど」

「そうか」

アンナは膝の上に乗せた本に視線を落とす。今朝リヴァイに渡されたうちの一冊、兵法書だった。
読むことはままならない。見聞きしたことの無い単語は読み飛ばしているから、内容を正しく把握できない。

「……読めるのか」

「まさか」

「それじゃあ意味ねぇだろう」

「覚えろと言ったのはそっちだ」

「………」

リヴァイの視線が顔に刺さるのを感じながら、アンナは素知らぬふりで本を読み続ける。(もしくは、読んでいるふりを)
不意にリヴァイの手が伸びてきて、膝の上の本を奪っていく。
読み途中だったものを奪われては気分が悪い。アンナは不服そうな表情でリヴァイを見上げる。

「俺が読むからお前は聞きながら覚えろ……いいな?」

ドザリと音をたてて、リヴァイが隣に腰を下ろした。
組まれた脚の上に乗せられた本。アンナが覗き込むと、リヴァイは舌打ちを漏らした。

「……読みにくい」

「読み方を覚えないと、ひとりで読めるようにならない」

数秒続いた睨み合い。折れたのはリヴァイの方で、眉間に皺を寄せたまま、兵法書を読み上げる。その声を聞きながら、リヴァイが読み上げていく文字を必死に目で追う。
時折前傾姿勢になりすぎ、視界を遮られたリヴァイの漏らす舌打ちが、ひどく耳障りだった。


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