「方向転換にガスを使うな。ワイヤーの巻き取りと全身の動きで行え」
空中を移動しているアンナの耳に、リヴァイの声が届く。
ここは調査兵団の敷地内に用意された訓練場。立体機動を駆使し生い茂った木々の間を抜け、標的である巨人の模型を探している。
リヴァイはどこか木の上からアンナの様子を見ているのだろう。リヴァイの声は広い敷地内に響いている。
リヴァイの言葉通り、ガスを噴かすことなくワイヤーを巻き取る力と体重移動だけで右方向への転換を試みる。しかし体は思ったように移動せず、空中でバランスを崩してしまう。アンカーを新たな場所に向かって放ち、体勢を保つ。
前方に巨人の模型を確認。移動スピードを落とさぬよう注意しながら、グリップに刀身を装着させる。
目標までの距離が確実に縮まってゆく。グリップを持つ腕に力が籠る。目標、目の前。後方に回り込み、弱点であるうなじ部分に狙いを定める。剣を振り上げ、肉を削ぐ。
刃が深く食い込こむ感覚が、手に伝わってきた。うなじ部分がしっかりと削がれていることを目視で確認する。
移動中にバランスを崩した場面はあったけれど、立体機動の操作はスムーズだった。目標までの移動スピードも、刀を食い込ませたタイミングも場所も、間違いはなかった。訓練を初めてから一番の出来だったと、アンナは思った。
高度を落とし、両足で着地する。アンナが着地してから数秒遅れて、リヴァイが地上に戻ってくる。
「……目標に接近してから削るまでの動きが遅い」
「………」
「後方に回り込んだら出来る限り素早く削げ」
この男はいつもこうだ。ほんの僅かな動きさえ見逃さず、決して妥協を許さない。リヴァイの中にある、兵士としての最低到達点は果てしなく遠い場所のように思えてくる。どれだけ訓練を重ねても、自分が納得いく動きだったとしても、リヴァイには認められないのだ。
いったい何時になったら、この男に認められる日がくるのだろう。
アンナは途方に暮れる思いでいた。
「……アンナ」
「なに」
「………」
リヴァイはアンナの顔をじっと見据え、黙っている。次に発する言葉を考えているように見えた。
「なんなの」
「……いや。……今日の訓練はここまでだ……兵舎に戻れ」
それだけを告げ、リヴァイは先に兵舎へと歩き去っていく。
リヴァイが言葉にしようとして飲み込まれたままになってしまったのは、いったいどんなものだったのか。アンナには知るよしもない。
兵舎に戻ったアンナは、途中ですれ違う兵士の顔を見ながら微かな違和感を覚えていた。
兵士たちの顔はみな緊張で張り詰めていた。追い詰められたような切迫感さえ漂わせている者もいる。一方で、瞳に高揚感を映す者も見かけた。変化は個々に違いがあるようだ。
兵士たちの変化を不思議に思いながら、そういえばリヴァイもなにかを言いよどんだりして、妙だったことを思い出す。
「やあアンナ」
通路の向こうからやってきたのはマリウスだった。声をかけられ、アンナは小さく頷く。
「今日の訓練は終わったの?」
「そう」
「君が立体機動の訓練をしている様子を見たけど……正直凄く驚いた」
「驚いた?」
「なんていうか……覚えが良い。僕らが数ヵ月掛けてやってきたことを、君は段飛ばしで自分のものにしている」
「……そんな感覚は全然ない」
「大丈夫、君はとても成長しているよ」
「……何も言われないけど」
「リヴァイ兵長に?」
アンナは頷く。
「何も言わないだけで、兵長もアンナのこと認めてるんじゃないかな。じゃなきゃわざわざ訓練なんてしないよ」
アンナはマリウスの顔をじっと見つめた。微笑んではいるが、どことなく強張りのある顔。
「……なにかあったのか」
「え?」
「マリウスも……他の兵士も、みんな変だ」
「変って?」
「顔が変」
「はは……それは傷つくなぁ」
「そういうんじゃなくて……なんていうか……」
「……うん、アンナの言いたいことはなんとなくわかる」
適切な言葉を探しあぐねるアンナをみかね、マリウスは深く頷いた。
「もうすぐ壁外調査がある。それでみんな張り詰めてるんだ」
もちろん僕もね、とマリウスは言い添えた。
「……壁外調査に出る前、これが最後になるかもしれないと思う。もう、生きて戻ってこれないかもしれない、と」
マリウスの言葉を聞きながら、アンナの脳裏に甦る、母の最後。巨人を前に何もできなかった自分。母の体からとめどなく流れ出る鮮血。床に広がる、真っ赤な血の海。
「でも僕らは戦うことを自分の意思で決めたから、強くありたいと思っている」
マリウスの瞳が真っ直ぐにアンナに向けられる。強い意思の籠った瞳だと、アンナは思う。
「みんなもそう思ってる。でも、緊張感はどうしても隠せないんだ。……臆病だと思うかい?」
マリウスの問い掛けに、アンナは首を横に振った。
「思わない。巨人を相手に戦う意思を持つ人間は、臆病なんかじゃない」
まるで、自分を励ましているみたいだ。自分で口にした言葉を頭の中で反芻しながら、アンナは思った。
マリウスはアンナの言葉を受け止め、微笑みを浮かべる。
「ありがとう、アンナ。君も巨人と戦う意思を持つ、とても勇敢なひとだ」
マリウスと別れたアンナは自分の部屋へ戻ることを止め、方向を変え歩き出す。
とても勇敢なひとだ。マリウスはそう言ったけれど、果たして私は本当に勇敢だろうか。巨人を目の前にして、勇敢に戦うことができるだろうか。もう、母を亡くした時のような無力感は味わいたくない。絶対に。
「壁外調査があるのか」
アンナが訪れたのはリヴァイの私室だった。アンナの自室とは違い、リヴァイの部屋は執務室も兼ねているのだろう。ドアの正面にはソファ、その奥に木製の机が置かれている。余計なものが一切目につかない、整えられた部屋だ。
リヴァイは机の前に腰を下ろしていて、手にはなんらかの書類がある。ドアを開けるなり前置きもなく言うアンナに、リヴァイは眉根を寄せた。
「……いきなり入ってきやがって……」
「その台詞だけは言われたくない」
「………」
「………」
暫し無言の睨み合いが続く。アンナは言うべき言葉を頭のなかで組み立てる。そうしなければ、うまく伝えられる自信がない。
「……どうして私には何も言わなかった」
「なんのことだ」
「壁外調査。もうすぐなんだろう」
「お前には関係ない」
「関係ない?」
「……今回の壁外調査にお前は出さない」
リヴァイは視線を手元の書類へ落とした。もうこれ以上話すことはない、さっさと出て行けと、言外にそう語っている。
アンナの中に苛立ちが募る。つかつかと歩み寄り、バン、と大きな音を立てて机に手を置いた。
リヴァイの目が再度アンナに向けられる。その視線は刺々しい。
「私がやっているのはなんの為の訓練だ。巨人を倒す為の訓練じゃないのか」
たとえリヴァイに殴られようとも、黙っているわけにはいかなかった。
手こずった立体機動も、苦手な読み書きも、全ては巨人を倒すため。そう思ったからこそリヴァイの指示に大人しく従い、必死に取り組んできた。しかし蓋を開けてみれば、壁外調査には出さない、などと言われる。これでは腹の虫がおさまらない。
「……てめぇは人の話が聞けねぇのか……俺は『今回は』と言ったはずだ」
リヴァイは眉間に皺を寄せながらそう答えた。
「……どういうこと」
「お前が壁外に出るのはまだ早いと言ってるんだ」
「そんなことない。私は訓練をものにしている」
「……自惚れか」
「違う」
どうしてこうも思うようにいかないのだろう。もどかしさばかりが募ってしょうがない。
「……確かにお前は覚えが早い」
「………!」
「だが今のお前じゃ壁外に出たところで巨人の臭ぇ口んなかに突っ込むのがオチだ」
「……そんなのやってみなきゃわからない」
「実際口の中でその台詞が言えんのか?」
「………」
「俺はお前を無駄死にさせるためにここに連れてきたわけじゃねぇ……確実に巨人を絶滅させられる力を持ってると思ったから連れてきたんだ」
リヴァイの切れ長の目がアンナを見つめる。この目に見つめられると、金縛りにあったように何も言葉を紡ぐことができなくなってしまう。
アンナはリヴァイの目から視線を逸らし、自分の足元を見つめた。見慣れた足が、頼りないくらい小さく見える。
「わかったらとっとと下がれクソガキ」
アンナは言葉を見つけられず、踵を返した。ドアを閉める直前、リヴァイの姿を盗み見る。その視線はすでにアンナには向けられていない。リヴァイが真剣な眼差しで書類を見ている姿を確かめ、静かにドアを閉めた。
〇
壁外調査出立日。この日は早朝から俄かに騒がしく、話し声や多くの足音でアンナは目を覚ました。
部屋のドアを開け通路を覗く。行き交う兵士たちはみな緊張した面持ちで、足早に移動している。
アンナは少し迷った末にそのまま部屋を後にした。すれ違う兵士たちはアンナの存在を気にも止めないか、流れと逆行する彼女を奇妙な目で見るかのどちらかだ。
みながこれから壁外へ赴くというのに、ひとり残されるというのは不思議な気持ちがするものだ、とアンナは思う。しかしどうしようもないことなのだ。自分はここに残るよう命令された人間なのだから。
目的の部屋に辿り着き、アンナはドアを開ける。中にいたリヴァイは支度の途中だったのだろう。シャツのボタンをかけていた手を休め、無断で入ってきたアンナをひと睨みした。
「……アンナ……お前は野郎の着替えを覗く趣味があるのか?」
「そんなのあるわけないだろう」
「なら出ていけ」
それだけ言うと、リヴァイは再びシャツのボタンをとめにかかる。アンナはリヴァイの後ろを横切り、ソファの上にどさりと腰を下ろした。リヴァイがちらとアンナを振り返り、舌打ちを漏らす。
シャツを着終え、リヴァイは立体機動装置用のベルトを装着し始める。全身に張り巡らすようにして装着するベルトを素早く身につけるリヴァイを見ながら、手慣れている、と感じた。アンナはいまだにこのベルトを装着するまでにある程度の時間を要する。
「……なんの用だ」
ベルトの装着を終え、スカーフを首元に巻きながらリヴァイが言う。アンナはソファの背もたれに掛けてあった上着を手に取ると、スカーフを巻き終えた頃を見計らい、リヴァイに向かって放り投げる。
「雑に扱いやがって……」
受け止めたリヴァイが、呟きながら上着を羽織る。
「………リヴァイ」
「……なんだ」
「もしリヴァイが死んだら……私はどうなる」
「生憎だが俺はそう簡単に死なねぇ」
「だから『もし』って言った」
リヴァイによって訓練を施され、憲兵団が捜索に来た際にもリヴァイが隠した。リヴァイによって地下街から調査兵団へと連れてこられたのだ。そのリヴァイが生きて戻らぬことがあれば、いったいどうなるのだろう。憲兵団に引き渡されるのか、それともまた地下街への生活に戻るのか。
どちらも御免だった。今の私にはもう、巨人を倒すという目的ができてしまっている。今更目的を奪われてしまうことだけは、どうしても避けたい。
「たとえ俺が死のうがお前の身柄は調査兵団預かりだ」
「そう……なのか」
「残念だったな……自由になれるとでも思ったか?」
「別に……そんなこと思ってない」
「はっ……どうだかな」
アンナを置き去りに、部屋を出ていくリヴァイ。ひとりきりになった部屋で、アンナは窓の外を見つめた。
透き通った青空。雲ひとつなく晴れ渡っている。これから人間たちが果敢に未知なる敵に挑もうとしていることなど、気にも止めないような晴れっぷりだった。
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