兵舎を出たリヴァイは用意された馬に跨がり、先に隊列を作っていたエルヴィンたちに合流する。


「あれ、リヴァイが私より遅いなんて珍しいね。もしかして寝坊?」

既に列の中にいたハンジが、リヴァイの姿を見付けるなりそう声を掛けた。リヴァイは顔をしかめ、「寝坊なんするかクソメガネ」と、粗暴な言葉で返す。

「あ、ねえリヴァイ。あれアンナじゃない?」

リヴァイの粗暴さに怯むことなく、ハンジが言う。
彼女の指差す先に視線を移すと、確かにアンナの姿があった。立ち止まったままじっとこちらを見つめている。ここからは距離があるため、その表情までは見えない。
訓練に向かう途中なのだろう。立体機動装置を装備している。

「見送りかな?」

「……さあな……」

アンナー!いってきまーす!」

ハンジは大きく手を振る。アンナは微かに頷いたようだった。

「リヴァイも手を振ったら?」

ハンジの言葉には答えず、リヴァイはアンナに視線を向けながら、数日前のことを思い出していた。




『……今度の壁外調査だが……アンナはどうする?』

壁外調査の日取りが決定し、作戦についてエルヴィンと話し合っていた時だった。大まかな流れを説明し終えた後で、エルヴィンがリヴァイに問い掛けた。

『……アイツを壁外に出すのはまだ早い』

『もう並の兵士相等の戦力にはなりそうだが……』

『あのガキに関しては俺に一任したんじゃなかったのか?』

『勿論。アンナは自分が指導し、戦力になるまで育てる――君が言ったことだ、リヴァイ』

『………』

『必ず戦力になるからと、君は言った。だから憲兵団には引き渡すな――とも。私は君の眼を信用しているし、私自身、彼女の力を認めている。リヴァイがまだ早いと言うなら、待つことにしよう』

『……エルヴィン』

『なんだ?』

『……いや……』

『……言いたいことはわかる。安心しろ、君が死のうと彼女を放り出すことはしない。まあ君がそう簡単に死ぬとは思えないが』

『………』

『リヴァイがそこまで強く思い入れる彼女の力に、私も期待している』




「リヴァイ、出発だ」

ハンジの声で我に返る。リヴァイは視線を前方へと戻し、馬の手綱を引いた。
アンナの視線をその背中に感じながら。


 

訓練を怠るな。壁外調査へ赴く前、リヴァイはそう言い残していた。言い付けに従い、アンナはいつも通りに訓練を行った。誰もいない訓練場で。

調査兵団の兵士たちの殆どが出払った兵舎はとても静かだった。残っているのはアンナと、前回の遠征で負傷し、長期療養を余儀なくされている僅かな兵士たちだけだ。
話し声も足音も聞こえない。ひとの気配がない建物の中にいると、この世界に自分ひとりしか存在していないような、そんな錯覚に陥りそうになる。

自室に戻ったアンナは明かりを灯し、ベッドの上に伏せられた読みかけの冊子を手に取った。
読み書きを訓練内容に加えたことで、それはだいぶ上達している。時間はかかるが、だいたいの文字を把握できるようになった。
今読んでいるのは調査兵団が過去に行ってきた壁外調査についての報告書をまとめたものだ。時折出てくる難解な文字に苦戦しながら、少しずつ読み進めている。

報告書の被害報告には、どの調査にも少くない人的被害が記載されている。少なくとも3割。時にはほぼ壊滅的な被害を出していた。
紙の上に載せられた数字だけを見ても、失われた命を把握することはできない。紙を通して伝わってくるのは、巨人という計り知れない力を前に、人間たちがもがきながら一進一退しているさまだ。

アンナは冊子を伏せ、ベッドに横になり目を閉じた。
壁外に出た兵士たちは、今ごろどこにいて、なにをしているだろう。自分がこうして安全な場所で休んでいる今この瞬間、巨人たちと懸命に戦っているのだろうか。
瞼の裏に、戦う兵士たちの姿が浮かぶ。先頭に立つのは団長であるエルヴィンで、次に続くリヴァイやハンジ。マリウスの顔も浮かんでくる。巨人を前にして戦う彼らは傷を負い、血を流している……。

アンナは目を見開き、跳ね起きる。床に置いたままにしていた立体機動装置を再び装備すると、そのまま部屋を出て訓練場へと向かった。
多くの兵士たちが戦っているなかで、安らかな眠りにつくことに対し、罪悪感を抱いたわけではない。ただ、このままでは眠れそうになかっただけだ。
もう一汗流してみれば、心地よく眠れるはず。そう思っただけだ。




次の日アンナは訓練場で、近付いてくる多数の足音を耳にした。馬の蹄と、馬が引く荷台の車輪が回る音。徐々に近付いてくるそれらは、壁外へ赴いていた兵士たちの帰還を報せる音だ。

訓練を中断し、兵舎の前まで駆け戻った。そこにはすでに帰還した兵士たちの姿がある。しかし、帰還した数が圧倒的に少ない。
目の前を通過していく者たちの顔色はみな優れない。なかには怪我を負っている者もいる。

続いてアンナの前を通ったのは荷台を引く馬だった。馬上にはマリウスの姿がある。荷台の中身を目にしたアンナの心臓が、一瞬凍りついた。
荷台の上に積み上げられているのは多くの人間だった。どす黒い血にまみれた遺体。五体満足なものはない。殆どが体の一部を欠損している。食い破られた箇所からのぞく、骨や筋肉。こぼれ落ちる内蔵。
足だけだったり、腕だけだったりと、個人を判別することもままならないものもある。
マリウスの横顔に視線を向ける。彼はこちらに気付いていない。前を見据えているが、その瞳は何も見ていないようだ。もしくは、ここではない何処かを見つめているのかもしれない。

隊列の後方からやってくるのはエルヴィンら幹部の列だ。
エルヴィンの後ろに続くのはハンジで、その横にリヴァイの姿を見付ける。

リヴァイの表情をじっと見つめる。そこにあるのは見慣れた、感情の読み取れない顔。惨劇を目の前した後だろうというのに、なんの感情も浮かんでいない。
目の前をリヴァイが通り過ぎる。リヴァイの視線がこちらに向けられ、目と目が合う。その瞬間、アンナは違和感を覚えた。
リヴァイの表情に微かな変化があるような気がした。そこから感情を読み取ることは、やはりできないのだが。
彼の表情は何かに耐えているようだった。



「……オイ……てめぇ何してやがる」

「見ればわかるだろう。本を読んでいる」

「 人の部屋のソファの上でするべきことか?それは」

壁外調査から戻り、リヴァイら幹部には会議でもあったのだろう。彼が部屋に戻ったのは夜も深い時間だった。
部屋の主であるリヴァイが不在なのをいいことに、アンナはソファの肘掛けに頭と足を乗せ、仰向けになって本を読み進めていた。

「……アンナ

「なに」

「お前風呂は済ませたんだろうな」

「まだ」

「チッ……汚ねぇままでソファに上がりやがって」

不機嫌そうに舌打ちを漏らし、リヴァイはクローゼットを開ける。羽織っている上着を脱ぎ、ベルトを外す。シャツを脱いで空いたハンガーに掛けている。
さらけ出されたリヴァイの背中。しっかりと筋肉のついた背中を、アンナは仔細に見つめていた。
リヴァイの手が新たなシャツに伸びると同時、アンナはソファから立ち上がる。

「リヴァイ、待て」

「………?」

命令口調が気に食わなかったのだろう。リヴァイは眉間に皺を寄せ、アンナを振り返る。向き合う形になったところで、アンナはリヴァイの腕を掴んだ。
掴んだ腕から首もとへ。首もとから胸部、腹部へと視線を移動させ、反対側の腕へ。素早く、しかし注意深くリヴァイの体を見る。
鍛えられた体。傷痕がいくつか残ってはいるが、どれも古いものばかりだ。痛みを感じるようなものではない。
アンナは腕を解放する。彼女の行動の意味が理解できずにいるリヴァイは、始終訝しげな視線をアンナに向けていた。

「怪我はない」

「なにがしたいんだ、お前は」

「怪我がないか調べていた」

「……俺が怪我をしていた方が良かったか?」

「そんなこと言ってない」

「………」

「………」

無言の睨み合いはリヴァイのため息と共に終わりを迎えた。アンナから視線を外し、新しいシャツを身に付ける。

「……怪我がないならどうして――」

「………?」

「どうしてそんな顔をしている」

リヴァイの意表を突いたらしいアンナの言葉。彼は一瞬大きく目を見開いた。

「……俺は元々こういう顔だ」

「今は違う顔をしている。壁外から帰ってきてからずっとその顔だ」

リヴァイ自身は気付いていないのだろうか。今もなお、耐えるような顔をしている。
兵舎の前で見たリヴァイの表情の違和感。リヴァイは怪我をしているのだろうと、アンナはそう思った。怪我の痛みを堪えているのだと思ったから、こうして彼の部屋で待ち、体を点検していたのだ。しかし予想は外れ、リヴァイの身体に怪我は確認できない。足取りはしっかりしているから、脚にも怪我はないだろう。


「……怪我をしてないならそれでいい」

アンナは勢い良く立ち上がり、そのままリヴァイの部屋を後にする。

長い廊下をゆっくりした足取りで進む。
リヴァイに怪我はなかった。では、堪えるような表情の原因はいったいなんなのだろう。
そして私は、どうしてこんなにもリヴァイの変化を気にしているのだろう。そう自分に問い掛けてみても、答えは見つからない。


「ずいぶん難しい顔をしているね、アンナ

考えに集中していたせいで、辺りにちっとも注意を払っていなかった。目の前にエルヴィンが立ち、微笑みながらアンナを見下ろしている。

「別に……ちょっと考え事をしてただけ」

「考え事?」

アンナは小さく頷く。

「……リヴァイは……」

「ん?」

「リヴァイはなにか病気でもしてるの?持病みたいなものとか」

「私が記憶する限りでは、彼は健康そのものだ」

「そうか……」

「……なぜリヴァイが病気だと?」

少し迷った末、アンナは自分が抱いた違和感をエルヴィンに話して聞かせた。
リヴァイの表情がいつもと違う。壁外から戻ってきて、何かを耐えるような顔をしている。でもそれがなんなのかは上手く掴めない。病気で苦しんでいるのかと思った。
少ない語彙で、たどたどしく語るアンナ。エルヴィンは、最後まで辛抱強く聞いていた。全て話し終えるとひとつ頷き、たっぷり間をとった後、ゆっくりと口を開く。

「……今回の壁外調査で、多くの兵士が犠牲になった。それがリヴァイの表情を曇らせている原因だろう」

「……犠牲を悲しんでいるということ?」

「リヴァイの心はリヴァイのものだ。彼が今抱いているものが悲しみなのか憎しみなのか……それとも後悔なのか……私が君に教えてあげることはできない」

「……あるいは全部かもしれない」

「そうだな」

「………リヴァイは他人の死を悲しむようなタイプには見えないけど」

「それを彼の強さだと、そう捉える人間も多い」

「悲しまないことが?」

「感情に左右されない、ということだよ、アンナ

「ふうん……」

感情に左右されない。それがいったいどういうことなのか、アンナにはわからない。それが強さだという理由も。

「リヴァイは感情的にならない。冷静でいることが大事だということを知っている」

「………」

「そんな彼の表情の変化に気付く人間は、そういない」

「なにが言いたい」

アンナの問いに、エルヴィンは答えない。ただ微笑みを深くするだけだった。


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