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家に帰る。それをこんなにも躊躇ったことなんて、未だかつて一度もない。あ、嘘。高校生の時母親と大喧嘩したあとはさすがに帰りづらかったかな。 あぁ、違う違う。考えがわき道にそれちゃったじゃない。歩き慣れた家への道をたどりながら、くだらないことを考えていた。 いや、別にくだらないことなんかじゃないんだけれども。だって帰宅することに躊躇するなんて、そうとう問題だと思う。 元はと言えば彰の所為だ。わたしのことが好きだなんて、どうして口にしたのよ、バカ。ずっと黙ってさえいてくれたら、こんな気まずい思いをしなくて済んだのに。 例え気まずかろうとなんだろうと、平気な素振りをするわたしの身にもなってよ。 嫌な女だな、わたし。薄暗い路地を曲がったところで、一人そっと溜息を吐いた。 でも、仕方ないじゃない。わたしは平気な素振りをして、時間が経つのを待つことしかできないんだもの。 彰の気持ちがいつか消えてしまうのを、ただただ待つことしか出来ないんだから。 またひとつ溜息を吐いて、気がつけばもうアパートは目の前だった。 アパートの入り口に、人影があることに気付く。小さな外灯の灯りは弱くて、人物のシルエットしかわからないけれど、男であることは間違いなかった。 どうせ勧誘かなんかでしょ。そう思いながらその男の前を過ぎようとした時だった。 「華梨」 低い声で名前を呼ばれ、驚きつつも男の顔を覗き込めば、そこにあったのは、見たくて見たくてしょうがなかったタツヤの顔だった。 「あがって」 先に玄関で靴を脱いで、部屋の灯りをつけてタツヤを中に促した。 「悪いな」 タツヤは玄関で靴を脱ぎながらそう言った。 彼は足もとに目を向けていたから、どんな表情でそう言ったのかは解らなかった。 ――来るなら来るって連絡くれればいいのに。 アパートの前で帰りを待ち構えていたタツヤに驚きながらも、わたしは言った。 ――悪かったよ。 突っ立ったまま、タツヤは本当に申し訳なさそうな顔で、少し笑った。 ――話があるんだ。 そう言った彼の顔は、真剣そのものという表情だった。 あぁ、この人のこんな表情を見るのも久しぶり。そんな考えを頭の片隅に追いやって、わたしは今朝の彰との会話を思い出した。 バスケ部の練習で、今日も彰は遅くなる、そう言っていた。 自分の腕に巻いた小さな時計に目を遣る。この時間なら、きっと彰はまだ帰宅していないだろう。 ――家でいい? わたしがタツヤにそう問うと、外灯に照らされた彼の顔に、優しい頬笑みが浮かんでいた。 「コーヒー……で、いいんだよね?」 「あぁ。悪い」 「へんなの。タツヤさっきから謝ってばっかじゃない」 「あ、悪い」 腰を下ろしたタツヤはテーブルに肘をつき、また言っちゃったな、と呟きながら口元を手で隠した。 お母さんに叱られた小さな子供の様に、少し気まずそうな顔をする彼が可笑しくて、わたしは小さく笑いを漏らした。 「カバン片づけてくるね」 コンロの火を付け、タツヤにそう声を掛けると、リビングに置きっぱなしにしていた鞄を手に取り、自分の部屋のドアを開けた。 心細い。持っていた鞄を床に落した瞬間、そう思った。 自分の家で、しかもタツヤが一緒に居るというのに心細く感じるなんて、わたしはどうかしてる。 ううん、心細いのなんて気のせいに決まってる。仕事帰りでお腹がすいてるから、その空腹感を心細さと勘違いしてるのよ、きっと。 今日の晩御飯はうんと美味しいものをたくさん作ろう。彰とわたしで、ガッツリ食べてやるんだから。 一人そう意気込んで、わたしは再びリビングに戻った。 キッチンではさっき火にかけたばかりのお湯がもう沸騰していて、注ぎ口から白い湯気を勢い良く噴出していた。 「熱いから気をつけてね」 「おう、ありがとな」 淹れたてのコーヒーをタツヤの前に置き、自分もテーブルを挟んで彼と向かい合う形で腰を下ろした。 彼がコーヒーを口に運ぶのを、わたしはただ見つめていた。 時々ずず……とコーヒーを啜る音がして、テレビも点いていない静かな部屋にとても響いた。 「うまかったよ」 空になったコーヒーカップをソーサーに置きながら、タツヤは言った。 彼は微笑んでいたけれど、わたしと視線がぶつかりはしなかった。 「もう1杯、どう?」 ちょっとふざけて、まるで『二軒目どう?』なんて誘うオヤジのような仕草で、ビールジョッキを引っかけるようなマネをした。 「いや、遠慮しとくよ」 「そう?」 わたしの悪ふざけに、小さな笑いを漏らしたタツヤ。 それに安心したわたしも、小さく笑った。 それからわたしもタツヤもしばらく黙ったままで、部屋の中はしんと静まり返っていた。時々外から人の話す声や、同じアパートの住人が帰宅したのかドアを開ける音が聞こえてきた。 たぶんタツヤは、話ってなに?と、わたしが切り出すのを待っているんだろう。そしてそう切り出さないことに痺れを切らしたタツヤの方から話し出すことを、わたしは待っている。 いい大人が2人もそろって、一体なにをやっているんだろう。 いや、大人だからこそ、傷つきたくなくて、傷つけてしまうのが怖くて、わたしたちはお互いに黙ったままでいる。 わたしには彰のように、たとえ傷ついてでも向っていけるような勇気も根性も、ましてや熱い想いもないのかもしれない。 「……華梨」 タツヤが、わたしの名を口にする。 彼は、わたしを見ていた。 「……好きな人ができたんだ……」 そう言ったタツヤの声は、これまで一度も聞いたことないような、静かで、どこか知らない人の声のようだった。 再びわたしたちの間に沈黙がやってきた。 だけど今度の沈黙は、どちらが破るのか明瞭だった。 この沈黙は今、わたしの為にあるものだから。 「……そう」 言いたいことは、言わなきゃいけない言葉はたくさんあるはずなのに、出てきた言葉はこれだった。 「……気づいてたのか」 「一度タツヤに電話した時、知らない女の人が出たから」 「そうか……」 「……」 「……」 わたしってば、落ち着き払って一体何を言ってるんだろう。 『知らなかった』と言いたい。 『裏切り者』と罵ってやりたい。 だけど、口が思うように動いてくれない。 「いつから……?」 「……夏に、彼女に告白されたんだ」 タツヤは顔を伏せてそう言った。 ――タツヤの彼女はわたしでしょう? ――わたしの顔を見て、そう言ってよ。 喉までせりあがった言葉は途中で勢い失せて、外に出るころにはただ無音なだけの空気になっていた。 「ごめん。華梨の事は好きなんだ。だけど――」 「だけど……?」 「……彼女とは、別れられない……」 「……」 眉根を寄せて、苦しそうな、泣きだしそうな顔をするタツヤ。 ――そんな顔しないでよ! ――わたしだってタツヤの事好きなのに! 相も変わらず頭に浮かんでは消えていくわたしの言葉たちは、なんて頼りないのだろう。 「……もう、いいよ」 もうなにも聞きたくなかったし、なにも言えないのも、沢山だった。 「……さよなら」 呟くように言うと、タツヤはごめん、と、そう漏らして席を立った。 玄関に向かうタツヤの足音を聞きながらも、わたしは体を動かすことが出来ず、ただ真正面を見詰めたまま座っていた。 靴を履く音が、ドアを開ける音が室内に響く。 「……華梨、ごめん……。だけど、最後くらい泣いて欲しかったんだよ、俺……」 タツヤは言って、ドアを閉めた。 わたしは思わず立ち上がって、玄関へ向かう。 だけどドアノブに手を掛けたところで、やっぱり体が動かなくなってしまう。 「……『泣いて欲しかった』だなんて……言わないでよ……」 閉まったままのドアに向かって、そう呟いた。 言いたいことも何ひとつ言えなかった。傷ついたって、伝えたかった。泣き叫びたくても、泣けなかった。 最後までタツヤにとって物わかりのいい女でいたかったから。 タツヤの為にそうありたいと思ったわたしの、ちっぽけでくだらないプライドが生み出した虚像。だけどそれも、今日限りでおしまいなんだ。 今更目頭が熱くなってくる自分に嫌気がさす。 生暖かいものが頬を伝ったその瞬間、後ろでガチャと、ドアの開く音がして、わたしは体をこわばらせた。 「華梨」 振り返るとそこには、彰の姿があった。 「……彰……」 わたしは急いで自分の頬に流れた涙を拭う。 彰は部屋のドアを閉め、立ったまま真っ直ぐな目でわたしを見つめた。その視線が、今は痛いのに。 「……やーねー、いるならいるって言いなさいよ、あんた」 なるべくいつもと変わらない調子で言いながら、彰の肩を軽く叩いたけれど、力加減が上手く出来なくて、思った以上に強く叩いてしまった。 「うん、ごめん。職員会議で練習なくなって帰りが早くなったんだよ」 彰は動じることなく、いつもの、少し眉を下げた笑い方で、そう言った。 「もしかして、聞こえてた……?」 「……ばっちり」 そこは気遣って『聞いてない』と答えてよ。 「……それにしても恥ずかしすぎるところ聞かれちゃったよね。振られるとこだなんてカッコ悪すぎ」 なんとか笑ってみたけれど、自分の耳に届いたのは乾いた笑い声だった。 「華梨……」 「わたし、とりあえず着替えてくるわ。ご飯、ちょっと遅くなるかも」 もう耐えられなくて、ひとりきりになりたくて、早口でそう捲し立てると彰の前を過ぎ、自分の部屋のドアを開けた。 だけどわたしの片腕は彰に捉えられ、あと少しの所でひとりになることを邪魔された。 「……離して」 「離さないよ」 「ふざけないでよ!」 見上げればそこに、至極真剣な眼差しの彰の顔があった。 わたしはその顔を睨みつける。 叫びたい相手は彰なんかじゃなくてタツヤだったのに、どうしてこうなるのよ。 「離さないよ、俺」 彰はそう言うと、強い力でわたしを引っ張り、その腕の中に収めた。 「離してって言ってるじゃない!」 彰の腕の中から逃れようと必死にもがきながら、わたしは叫ぶ。 悔しいけど、わたしの力じゃ彰はびくともしなかった。 「離したら――」 暴れるわたしに構わず、彰は続ける。 「離したら、華梨はひとりで泣くんだろ?」 彰の低い声が直接頭に響いてるみたいな感覚に、わたしは抵抗するのを止めてしまった。 「俺の前で泣けばいいよ。俺は泣いてる華梨も好きだから」 そう言って、彰の腕の力は一層強くなった。 彰の腕の中は、とても温かい。 「……彰……」 「うん?」 「あんたは……ずるいよ……」 後のほうの言葉は、もう言葉にならなかった。 次々あふれてくる涙を、抑えることも出来なかった。 「っく……わたし……だった……のに……」 「うん」 「……でも……なにも言え……かった」 苦しくなるくらいの嗚咽で、自分でも何をどう言葉にしているのかなんてわからなかった。 それでも彰は、うん、と、言いながら、わたしを抱きしめていた。 どれくらいそうしていたかわからない。抱きしめられていた腕の力を少しだけ緩め、彰がわたしの顔を覗き込む。 「俺、華梨のこと好きだよ」 そう言った彰の顔は、まっすぐで、真剣で、瞳がとても綺麗だった。 「……知ってる」 真っ直ぐに彰を見つめて、そう言った。 お互い視線をそらさず、ずっと見つめあったままでいた。 そしてわたしと彰は、どちらからともなく唇を重ねた。 |