「わたし、あの部屋出てくから」

華梨は言った。
その言葉は余りにも予想外過ぎて、何も反応することが出来なかった。

「……え?」

彼女の言葉が一体どんな意味を持つのか、頭の中で理解しかけた俺の口から出たのは、言葉じゃなくてただの音だった。
さっぱり訳がわからないと、そればかり思う俺。

「これが、わたしから彰へのクリスマスプレゼント……かな」

混乱するばかりの俺に、華梨は清々しいくらいの笑顔でそう言った。


***


「華梨」
「うん?」
「冗談たよね?」
「まさか」

部屋を出ていくと、そう告げると、彰の顔からはいつもの笑顔が消えていた。

「引っ越し先も決めてあるの。今の部屋より職場に近くなるし」
「……」
「安心して。わたしが引っ越した後も暫くは家賃半分入れるから。今まで彰のお母さんから頂いてた分、使わずにとっておいたから、それで」
「……」
「彰のお母さんには、わたしから引っ越しの事全部話しておくわ。彰はそのままあの部屋に住んでもいいし、新しい所見つけて引っ越してもいいんじゃない?」
「……」

ペラペラと喋るわたしとは対象的に、彰は黙ったままでいた。

「そろそろ帰る?ここも混んできたし」

座ったままラーメン屋を見渡せば、ちょうど夕食時なのか、スーツ姿のサラリーマンたちで賑わう様になっていた。
席を立とうとするわたしの手を、彰は掴んだ。

「どうして?」

テーブルの上で手を掴まれ、わたしは身動き出来ない。

「どうしてって……決まってるじゃない、そんなの」

部屋を出ていくことが彰へのプレゼントだなんて、わたしは何処までも偽善者だな。
本当は、わたしが逃げ出したいだけなのに。

「……もう、嫌なのよ」

彰は真剣な目で、黙ってわたしを見つめている。
その目を見ることが出来なくて、わたしは目を伏せた。

「……何が嫌なの?」

彰は眉を下げて言った。
本当はわかってるくせに、それでもわたしの口から聞きたいなんて、意地悪かドMのどちらかだわ。

「今あの部屋で一緒に居ても、気まずいだけじゃない、わたしたち・・」
「……」
「……この先あの部屋で一緒に居ても、なにも変わらないのに」

わたしの気持ちは変わらない。これからどれだけ一緒に過ごそうと、わたしは彰を好きにはならない。
だけどわたしは彰を利用したの。
たかが17歳の男の子。
これからもっといい恋だって出来るかもしれない。
それなのにわたしが傍に居たんじゃ、きっと何も変わらない。

「それでも、俺は華梨の事好きだよ。」
「……」
「華梨が俺の事好きじゃなくても、俺はそれでいいから」

彰は、真剣な顔でそう言った。

どうしてそうなの?どうして彰は、こんなわたしなんかが好きなの?
わたしは彰を利用して、傷つけて。彰に好いてもらえるような女じゃないのに。

「――迷惑なの」
「……え?」
「だから!そういう彰の気持ちが迷惑なの!重いのよ!」

賑やかだったラーメン屋の店内が、一瞬シンと静まりかえるのを感じた。
店内は再び騒めきを取り戻したけれど、わたしと彰は黙ったままだった。
わたしは、『これでよかったんだ』と、自分の心に言い聞かせていた。あの部屋を出ていくことがわたしにとっても、そして彰にとっても最善なのだと信じて。

「……そろそろ帰ろうよ、彰」
「……うん」

帰ろう、あの部屋へ。
あと僅かしか一緒にいれないあの部屋へ、帰ろう。



「ちょっと彰、あんた背ぇ高いんだから、ちゃんと上の方まで拭いてよね」
「ごめんごめん」

カーテンを取り外した窓からは、冬の冷たい空気を少しだけ暖めてくれる太陽の光が部屋に差し込んでいた。
年が明け、年末年始ののんびりした雰囲気も薄れてきた日曜日。今日、わたしはこの部屋を出る。

「ほらー、まだ上の方がくもってるってば」
「そうかなー」

今までお世話になった部屋をキチンと掃除して出ていくのは、やっぱりマナーであり常識だと思う。とは言っても、掃除の殆どを彰にやらせていたのだけれど。

「華梨てさ」

手を動かし、窓とにらめっこしたまま彰が口を開く。

「ん?」
「華梨て、結構人使い荒いよな」

彰は、少し意地悪な笑顔で言った。わたしは、そんな彼の背中を手のひらで叩いた。

彰の希望で『デート』と銘打ったあの日以来、わたしと彰はずっと気まずい思いをしながらこの部屋で過ごしていた。
だけど今日は、この部屋で一緒に住みはじめた頃の様に、ごく自然に会話をして、笑い合ったりしてる。
そう出来るのは、今日が最後だから。わたしも彰も、そう思っているからだろう。

「人使い荒いなんて失礼ねー。そりゃこの部屋使ってたのはわたしだけど、彰はこれからもこの部屋に住む訳でしょ?だったら掃除手伝うくらいのことは当然じゃない?」

まとめた手荷物をリビングに運び出しながら、わたしは言う。彰は、眉を下げて笑った。
本当にこんな風に過ごすのは久しぶりだ。

「でも彰のおかげで助かったよ。かなり綺麗になったし」

リビングから自分の使っていた部屋を見渡す。
家具も全て運び終え、彰だけが佇む部屋。長身の彼がいるというのに、そうとう広く感じる。

「掃除も済んだことだし……わたし、そろそろ行こうかな」
「え?もう?」
「うん。向こうの部屋も整理しなくちゃだしね」
「……そっか。あ、俺外まで見送るよ」
「いいわよ、そんなの」
「いいからいいから」

彰はそう言って、リビングに置いていたわたしの手荷物を掴むと、玄関へ向かった。
彼に続いて玄関で靴を履き、そのまま外へは出ず、一度リビングの方に向き直る。

色々なことがあったこの部屋。
ソファに2人並んで、同じテレビを見た。
テーブルに向かい合わせで座り、夕飯を食べながらくだらない話をして笑った。
窓から見える海を見つめて、2人一緒に海へと思いを馳せた。
玄関先で、旅行に出掛ける彰にキスをされた。
停電した日に、抱きしめられた。
タツヤに振られた夜、わたしと彰はこの部屋で、男と女だった。


「華梨?」

ドアから顔を覗かせた彰の声で、はっと我に返る。

「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
「出てくのが名残惜しくなった?」
「まさか。清々してたとこよ」

ドアをくぐり、アパートを出て向かい合う。わたしの台詞に、彰は淋しそうに笑った。

「駅まで送ろうか?」
「いいわよ、ここで」
「そう?」
「うん」
「そっか……」

わたしたちは、何を話すでもなく、ただ向かい合ったままでいた。
ほんの数分が、永遠にも感じられそうな沈黙だった。

「華梨」

沈黙を先に破ったのは彰だった。

「俺は離れても華梨の事が好きだよ、たぶん」
「なによ、たぶんて」
「いや、絶対」

彰は、真剣な顔で言った。
だけどわたしは知っている。人の心は移り気で、変わりやすい。
永遠なんて、ない。彰くらいの年頃の子なんて、特にそうじゃないか。
わたしのことも、すぐに思い出に変わるんだ。


「……行くね」
「うん」
「部屋に入ってよ」
「華梨を見送ってから」

ニコリと笑う彰に根負けし、わたしはくるりと彼に背を向け、歩きだした。

わたしたちは、「さよなら」も「またね」も言わなかった。
わたしも、そして彰も、心の奥底ではわかってる。
わたしたちは、もう会わないことを。二度と会うことは無いということを。


「なにやってるんだろ……」

足を止めず、ひとり呟く。
彰を傷つけたのはわたしなのに、泣く資格なんかないのに、涙が出てくる。

「最低……」

彰からは、まだわたしの背中が見えている。そう思うと、足を止める訳にはいかなかった。