唄月は菊乃屋の二階窓際から表通りを見下ろしていた。
彼女の視線の先にはこれから置屋へ向かう桜田太夫の姿があり、人々が桜田の太夫道中を足を止め見惚れる様が、二階窓からよく見通せた。


「・・・ほんま綺麗や・・・桜田こったい」

そう呟いたのは、唄月の髪を結っていた禿の少女であった。
禿は唄月と鏡越しに視線がぶつかると、ビクリと肩を震わせ、顔を俯かせた。

「・・・えらいすんまへん」

「謝ることあらへんよ。桜田こったいは綺麗やと、わてもそう思とったとこや」

唄月の言葉に安堵したのか、禿はほっと息を吐き出して、再び手を動かし始める。
鏡越しに禿の安堵した表情を見詰めながら、この少女が他の芸妓の前でも同じ様な台詞を漏らし、そして折檻されたのであろうと、唄月は思った。

きらびやかな着物を纏い、艶やかに微笑む芸妓は何時だって美しい。しかしそんな芸妓たちの化粧を取った素顔のそのさらに奥には、其々が女としての誇りや、いかに自分が男たちを多く惹き付けられる芸妓であるか等、簡単には見抜けぬ感情を抱えこんでいる。
それらは時として他の芸妓への嫉妬として不意に表へ現れて、抵抗出来ぬ弱い立場の者に牙を向く。事実唄月も自身が禿であった頃、世話をしていた姉さん芸妓の前で他の芸妓の踊りを褒め、激しく頬を叩かれた事があったのだ。

どれだけ位が高かろうが、どれだけ美しかろうが、芸妓は皆禿から始まり、厳しい中で育っていく。
美しい立ち居振舞いも、歌や踊りも、そして、不当な体罰制裁さえ、上から下へと引き継がれていく。
それが芸妓として生きていく者の、避けられぬ道であることを、唄月は学び生きてきたのだ。


唄月天神、お待たせいたしました」

禿の声ではたと我に返った唄月の目が、鏡の中にいる女の姿をとらえる。
結い上がった髪に輝く簪を差し、肌に白粉を施した自分の姿は、昔自分が禿だった頃世話をしたあの芸妓と、一体どこが違うのだろう。


「いってらっしゃいませ」

指先を畳に着けて深く頭を下げた禿に、「おおきに」と声を掛け、唄月は立ち上がった。

自分の頬を叩いた芸妓。そして島原にいる全ての芸妓。
美しく着飾った女たちの間に対した違いなんて無く、自分もそんな島原芸妓のひとりに代わりはない。
それでも、誰よりも美しく微笑み、誰よりも艶やかに踊る。それが唄月の、芸妓としての誇りであるから。



「菊乃屋の唄月どす」

「お待ちしとりました。どうぞ、こちらへ」

逢状を寄越された置屋の戸を潜ると、主人に案内され客の待つ座敷へ向かう。
今宵唄月に逢状を寄越したのは、新選組隊士であった。
吉野屋の一件以来、女将は新選組隊士に明らかな嫌悪を示していたが、それでも逢状を寄越されれば芸妓を座敷に向かわせていたし、唄月自身も何度か新選組隊士の座敷に上がっていた。
いくら恨み辛みがあろうとも、行き交う金には逆らえぬのが人の虚しさなのかもしれないと、唄月は思った。


「失礼いたします。菊乃屋から参りました唄月どす」

案内された座敷の襖越しに声を掛け、唄月はゆっくりと襖を開いた。
座敷内はさぞ賑やかであろうと思いながら開いたそこは、予想に反し静まり返っていた。まるでこの座敷に客など一人もいないかのように。


「待ってたよ唄月ちゃん」

名を呼ばれ頭を上げてみれば、行灯に照らされる沖田総司の姿が唄月の瞳に映る。
沖田以外に人はおらず、月明かりの差し込む窓を背景に、沖田は出されていた酒に口を付けていた。

「・・・今夜のお客はんは新選組の人や聞いとったけど・・沖田はんやとは思うてませんでした」

「あれ?僕じゃ不満みたいな言い方だね」

「そないなこと言うとるんちゃいます」

相も変わらず意地の悪い沖田の物言いに、唄月はぴしゃりと言葉を返す。
そんな彼女の反応の何が可笑しかったのか、沖田は嬉しそうに笑った。

「新選組のお人が一人で芸妓呼ぶやなんて珍しいと思ただけどす」

唄月はそう話ながら座敷内に足を進め、沖田の隣に腰を下ろした。
唄月の知る限り、新選組隊士のなかでもよく島原に来る原田や永倉たちは、何人か隊士を連れて来ることが目立っていたし、土方などは幕府要人との会合や接待に島原を使用し、一人でやって来る者は少ない。

「ましてや・・・沖田はんはさほど芸妓遊びがお好きやあらしまへんのに」

「どうして僕が芸妓遊びが好きじゃないって知ってるのさ」

「新選組の人らが島原で遊ぶゆうんはもう有名になっとりますけど、沖田はんが島原に来たゆう話はよう聞かしまへんから」

徳利を手に、沖田の手の中にある猪口に酒を注ぎながら唄月は言った。

「・・・なるほどね」

注がれた酒を飲む沖田の様子を、唄月は訝しげな目で見詰めていた。

「・・・君、いつもお客さんの前でそんな顔してるの?」

呆れた様な、困ったような表情でそう言った沖田の台詞に、唄月はムッと顔をしかめる。
今の自分の表情は、沖田であるから、一体何を企んで自分に逢状を寄越したのか読めぬ相手であるからで。普段客を前に座敷に揚がる時の自分まで侮蔑する様な沖田の物言いが、唄月は気に食わなかった。


「わてを呼ばれはったなら、沖田はんには芸妓遊びを楽しんでもらわなあきまへん。島原での一時をお楽しみくださいませ」

唄月は恭しく述べると立ち上がり、座敷の隅に控えていた連れの芸妓に目配せをした。
唄月の視線を受け取った芸妓は、畳の上に置かれた琴の弦に指先を添える。

沖田が一体何を思い自分を座敷へ呼んだのかは解からない。もしかしたら先日屯所に訪れた時の様に何かしら企てがあるのかも知れぬ。
それでも芸妓として揚がった座敷では、自分の持てる最高の芸で客をもてなすのが島原芸妓である。
何より、島原芸妓としての自分を侮蔑する沖田を、自分の芸で見返してやりたいと、唄月は思った。

琴の音が座敷内に響き初め、唄月は聞き慣れたその音に合わせ踊ろうと、袖を振ったその瞬間、

唄月ちゃん」

沖田が声を上げ、唄月の動きも琴の音も止む。

「もしかして怒ってるの?」

沖田の問いに、唄月は1つ息を吐き出して、口を開いた。

「・・・へえ、怒ってます」

客に対する態度とは思えぬ程にぶっきらぼうな唄月の物言いに、ビクリと肩を震わせ怯えを見せたのは琴を奏でていた芸妓であった。
唄月を斬り殺すのではと、不安げな視線を向けた芸妓の先にいる沖田本人は、予想に反して困った様に眉を下げていた。


「まいったなあ・・・」

呟く様に、沖田は言った。

「ごめんね唄月ちゃん。僕は君を怒らせる為に来たわけじゃないんだ」

沖田はまっすぐに唄月を見詰めてそう言った。
沖田の口から出た謝罪は、いつも見せる茶化す様なものではないことは、唄月にもわかった。
そんな沖田を前に唄月は、抱えていた怒りのぶつけ処を無くし、諦めた様にその場に腰を下ろした。

「・・・それやったら沖田はん、何故わてを呼びはったん?」

考えがさっぱりと言っていいほど、沖田がたった一人で自分を呼んだ理由がわからない。いつまでも隠されているのは、唄月の性に合わないのだ。


「・・・ちょっと唄月ちゃんと二人だけにしてくれない?」

沖田はそう言いながら、座敷の隅にいる芸妓に目をやった。
沖田に目を向けられ、芸妓はどうするべきかと唄月に答えを求めるようにして視線を送る。

「・・あんたは下がっといておくれやす」

唄月の言葉を受け、芸妓は頭を下げ、そして座敷の外へと姿を消す。
二人きりの座敷は、互いの吐息さえ聞こえそうなほど静かであった。


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