新選組屯所、西本願寺のとある一室。
雪村千鶴は、部屋の主が横たわる枕元に腰を下ろした。

「沖田さん、お食事をお持ちしました」

「・・・・・」

「・・・沖田さん・・・?」

部屋の主である沖田は、千鶴の呼び掛けには応えない。千鶴の耳に届くのは、規則正しい息遣いのみであった。

このところ、沖田の体調は優れない。隊務から離れ、こうして自室で休んでいることが多くなった。
そんな彼を気遣う千鶴であったが、当の沖田はそんな彼女を煙たがる節がある。

一体どうしたらいいのだろう。沖田の身体に巣食う病を知りながらも、何も出来ないのが歯痒い。
彼の為に、なにかできることはないだろうか。いくらか痩せて見える沖田の顔を見詰めながら、千鶴は小さく息を吐き出す。

沖田が眉をしかめ、苦しそうに咳を漏らした。目を覚ますかと思われたが、咳が収まった後も、沖田は瞳を閉じたままでいる。
やがて、沖田の唇がうっすらと開いたことに、千鶴は気付いた。


「・・・・唄月ちゃん・・・」

沖田の唇から漏れた声は、か細く弱々しいものであったが、その囁きはしっかりと千鶴の耳に残っていた。





『また会いにくるから』

角屋の座敷に揚がった夜、偶然沖田と出逢った唄月は、あの夜の言葉を何度も噛み締めながら過ごしてきた。
沖田が自分を訪ねるのを心待ちにしていた唄月であったが、気付けば、ただ時間だけが流れていた。
いっこうに姿を見せない沖田に、唄月は心許ない思いであった。



唄月こったい」

不意に名前を呼ばれ、思わず肩を揺らす唄月

「お稽古の支度が整いました」

「おおきに」

禿の声掛けに頷いて、唄月は立ち上がる。

「こったい・・・このところお元気がないようですけど、具合でも悪いんどすか?」

「・・・そないなことあらへん。いつもどおりや」

「それやったらええんどす。うちら禿の間でも、こったいの体調を心配したはる子が多かったので・・・」

禿の後に続いて廊下を歩きながら交わした会話に、唄月はひっそりと苦笑いを漏らした。

「わての心配をしてる暇があるんやったら、そのぶん稽古に励みなさい」

「へえ」

見送りの禿を残して表通りへ出ると、朝の太陽が目に眩しい。置屋や揚屋が店仕舞いをしているこの時刻、島原の街は夜とは全く別の顔をしている。

人気の少ない道で、浅葱色の羽織はことさら目を引いた。
唄月は、隊をなして歩いている集団の中をじっと見詰め、その顔ぶれに落胆を覚えた。巡察を行う新選組隊士たちのなかに沖田がいるのではないかと、期待していたのだ。
目の前を歩く新選組隊士たちが過ぎ去るのを見送って、唄月は歩きだす。
言いようのない寂しさを抱えた身体は、ひどく重たい。



「あの・・・」

背中に掛けられた声に振り向けば、そこには少年の姿があった。
何処かで会ったことがあるのだろうか。自身の記憶の中を探りながら、じっと少年の顔を見詰めていた唄月だったが、やがて「あ」と、小さな声を漏らした。

「あんたはたしか、いつやったか沖田はんを迎えにきた・・・」

「はい。雪村と申します」

とある雨の日、偶然にも街角で遭遇した沖田と雨宿りをしたことがあった。巡察中にも関わらず、隊士を連れていなかった沖田とふたりだけで言葉を交わすなか、彼を迎えにやってきたのがこの雪村と名乗る者だった。
以前と同様、新選組に同行しているようだが、雪村は彼らの隊服である浅葱色のだんだら羽織を纏っていない。あの時と変わらず男装をしているが、整った顔立ちと高い声音は、まさしく女子のそれである。

この雪村という者が、女子でありながら男のなりをしている理由も、新選組に関わっている由縁も、唄月は知らない。自分が知ることの出来ない沖田との繋がりを持つこの少女に、嫉妬を覚えたりもした。
だが今は、一度顔を合わせたに過ぎぬこの少女だけが、沖田の現在を知る唯一の手掛かりだった。

「最近沖田はんをお見かけしとりませんが、お達者どすか?」

「それが・・・」

一瞬、躊躇いを見せる雪村。

「・・・・沖田さんは、病なんです」

「病って・・・何の・・・?そないに悪いんどすか?」

『会いに行く』と、そう言いながら姿を見せなかった沖田。原因が病であると知り、唄月は狼狽えながらも雪村に問うた。
雪村は、唄月の視線を避けて僅かに俯く。「お見舞に行ってあげてください」とだけ告げると、唄月に背中を向けて、足早に新選組隊士たちの元に向かい、その中に紛れてしまった。
段々遠ざかっていく隊士たちの背中を、唄月はただ見送ることしか出来ない。




「沖田はんはいますか」

舞の稽古へ赴く為に外へ出た唄月であったが、足を運んだ先は西本願寺であった。
稽古を怠ったと知れば、女将はさぞ怒ることだろう。そう理解していながらも、唄月にはここ以外に行く場所がないように思われた。

唄月に声を掛けられた新選組隊士は、「ここで待つように」と、彼女を門前に留め、扉の奥に姿を消した。隊士でない者を屯所に入れるには、上の人間の許可がいるのだろう。
もし追い払われてしまったら、次に沖田と会える機会は一体いつになるだろう。そんな不安を覚えていた唄月に、隊士から「付いてこい」と声が掛かった。

隊士に案内された部屋の前で、唄月は小さく息を吐いた。どんな顔をして沖田に逢おうかと、一瞬迷ったのだ。
会いに行くと言った沖田。彼が姿を見せる日を、心待ちにしていた。その気持ちを、どう伝えようか。そんな唄月の思考は、部屋の障子を開いたと同時に、どこかへ行ってしまった。

室内には一組布団が敷かれ、その中で沖田は横たわっていた。

―――痩せてしまっている。
沖田の寝顔を見た唄月が、最初に抱いた感想であった。
障子を閉めきると薄暗くなる室内とはいえ、沖田の顔色はあまりにも冴えない。

―――余程悪いのだろうか。
枕元に腰を下ろした唄月は、沖田の顔を見ながら、不安に駆られる。



「・・・食事なら要らないって言ったよね」

いつから目覚めていたのだろう。人の気配を感じたらしい沖田が、目を閉じたままで言った。おそらく隊士の誰かと勘違いしているのだろう。
唄月は、囁く様に彼の名を呼んだ。

「・・・沖田はん、わてどす」

「・・・唄月・・ちゃん・・・?」

ゆっくり目を開けた沖田は、唄月の姿を認めると、微笑みを浮かべた。
熱があるのか、唄月を見詰める瞳が潤んでいる。

「おかしいな。夢の中でも君に会ってたから、これが現実な気がしない」

「起きたらあきまへん。寝といておくれやす」

起き上がろうとした沖田を制す苗字
彼女に押し止められる形で、沖田はそのまま枕に頭を付けた。

「・・・ねぇ、どうして君がここに?」

「沖田はんが病やと聞いたからどす」

「・・・・誰に?」

「・・・・可愛らしいお侍はん」

「・・・他の人には話さないって、約束してたんだけどな」

沖田の口から漏れるため息。
そんな彼の言動を見て、唄月の心は苦しくなる。

「・・・沖田はんの病、悪いんどすか?」

「そんなことないよ。ちょっと風邪が長引いてるだけ。・・・新選組には過保護な人がいて、最近は隊務にも出してもらえないから退屈してたんだ」

「・・・それやったら、せめてわてに教えてくれたってよかったのに・・・。・・・沖田はんが具合悪いのも知らんと、来てくれはるのをただ待っとっただけやなんて・・・」

「待っててくれたんだ。そんなに僕に会いたかった?」

意地悪な笑みを浮かべ、唄月を見上げながら沖田は言う。それはいつもより弱々しい言い方で。
唄月は何を言うでもなく、ただ黙って頷いた。


「・・・ずるいなぁ」

沖田はゆっくりと上体を起こしながら言った。

「そんな可愛い反応、反則だよ」

沖田の手が伸びてきて、唄月の頬に添えられる。
彼の手に自分のそれを重ね、唄月は沖田の瞳を見詰め返した。

沖田の瞳に浮かぶ、優しく暖かな色を受け止める。
沖田の瞳を見詰めていたら、自分の胸のなかにある感情が、溢れてしまいそうになる。


唄月ちゃん、僕はね」

瞳に優しい色を浮かべたまま、沖田が口を開いた。

「僕はまだ物心つく前に、近藤さんの道場に内弟子として預けられたんだ。家が凄く貧しくて、姉上は僕を養うことが出来なくなってたから」

沖田はゆっくりと、唄月に語った。
預けられた近藤の道場で、兄弟子たちに虐げられたこと。誰も信用することができず、心を閉ざしたまま過ごした幼少時代。そんな沖田を大きく包み込み、彼を救いだした近藤への感謝と憧れ。
時折咳を漏らしながら語る沖田。
彼が咳をするたびに止めようとする唄月を遮って、沖田は続けた。

「――・・・だから僕は、近藤さんの為に強くなりたいって思った。近藤さんの敵を斬る刀になるって、そう思ったんだ」

「・・・刀として生きる・・・ということどすか・・・?」

「そうだね。・・・でも・・」

「でも・・・?」

「もう、刀になることも出来ないのかもしれない」

「・・・沖田はん・・・?」

沖田の顔に射した暗い影に、唄月は不安を覚える。
心配そうに顔を覗き込む唄月に気付いて、沖田は微笑を浮かべた。

「近藤さんの刀になれなくなることが、何よりも怖いことだって思ってた。でも今はそれと同じくらい、君と離れることが怖いと思う」

「・・・そない・・・何言うてますの。・・・まるで死んでしまうような言い方・・・」

唄月は、自分でも気付かぬうちに声を震わせていた。

「沖田はんの病はただの風邪で、すぐ治るんでっしゃろ・・・?」

「うん、そうだね。ちょっと長い風邪だから、少し弱気になってたのかも」

ごめんね。そう言って笑みを見せる沖田。それでも唄月の不安は晴れない。

一体、沖田に何があったのだろう。病は、本当にただの風邪なのだろうか。
今まで一度として見たことのない、不安や弱音を漏らす沖田。
触れれば壊れてしまいそうな何かが目の前あって、唄月はそれに抗う術を見付けられない。


「・・・沖田はん・・・」

「・・・ん?」

「沖田はんが刀として生きとるのとおんなじように、おぼこい頃に身売りされたわても、芸妓としてしか生きる道がおへんどした。これからも、芸妓として生きていくと思とった」

芸妓以外の生き方はなかった。
望むことさえ、間違っていたから。

「けれど沖田はんに出逢って、解らなくなったんどす。芸妓として生きることをかなんと思ったことも、迷うこともなかったのに・・・」

「・・・唄月ちゃん・・・」

「今はただ、ずっと沖田はんの傍にいたいと、それだけを願っとるんどす・・・」

崩れてしまいそうになるものを、繋ぎ留めたい。唄月はその一心で、言葉を紡いだ。
脆く危ういものの前では、自分はなんと無力なのだろう。
唄月の瞳から、涙が一筋溢れ落ちた。


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