「それじゃあ配達行ってくるわ。店番よろしくね、なまえちゃん」

「うん、いってらっしゃい」

叔父叔母夫婦の営む花屋の軒先を掃除していたわたしに、叔母さんが声を掛ける。叔母さんは両手に抱えた花を自転車の前籠にそっと入れると、自転車にまたがり、颯爽とペダルを漕ぎだした。
遠ざかって行く叔母の背中を見送って、店に面した通りを行き交う人々に目を向けた。小さな子供の手を引くお母さんや、仕事中なのか忙しなく歩いていく男性。色んな人が往来している。

さすがはかぶき町。わたしが生まれ育った武州とは人の数そのものが違う。そんなことに関心しているわたしの視線の先に、一組の男女の姿があった。おそらく十代後半だろう男女は、互いに微笑み合いながら仲睦まじく歩いていく。
今わたしの目の前を行く2人に、若き日の自分を重ねられたら良かったのに。わたしが若い男女に重ねるのは、あの頃の自分自身なんかじゃない。
わたしが重ねる面影は、もう決して叶うことない、2人の笑顔だ。


願いごとひとつだけ


「・・・それでね、勲ちゃんがまたソイツを助けたってワケ」

「そう・・・そんなことがあったの」

いつだったか、日差しが気持ち良いある日のこと。わたしは暫く顔を見ていなかったミツバを訪ねた。
暖かい日が当たる縁側に腰を下ろし、わたしはミツバが顔を見せない間に近藤道場で起こった出来事を彼女に語り聞かせていた。

「そーちゃんからも聞いてたのよ。新しい人が入ったって」

ミツバは言いながら、わたしの横にお茶と、彼女の好物である激辛せんべいを置く。
わたしと同じように縁側に腰を下ろし、激辛せんべいを頬張るミツバを見ているだけで口が辛くなる気がして、お茶に手を伸ばした。


この頃の近藤道場での大きな出来事は、彼無しには語れない。
土方十四郎が近藤道場に出入りするようになって、賑やかさが増した。わたしがそう話すと、ミツバは「私もその人に会ってみたいな」と、そう言った。
その時のミツバの笑顔を、わたしは忘れる事が出来ずにいる。


それから過ごした時間は、わたしにとってかけがえのないものになった。
道場を片っ端から潰して廻っていた一匹狼は、いつの間にか仲間が出来た。仲良しこよしとまではいかないけれど(特に総悟とは)、初めて出会った頃なんかとは比べものにならないくらい、彼は柔らかくなった。
そんな彼を、勲ちゃんはいつの間にか‘トシ’と呼ぶようになっていて、気が付けばわたしも彼を‘トシ’だなんて呼んでいた。

道場へ赴けば、そこはいつだって暖かかった。
いつもトシと総悟がくだらない言い争いをして、それを勲ちゃんが止めに入るという、なんとも馬鹿馬鹿しい光景だったけれど、わたしはそんな皆を見ているのが大好きだった。
隣にいるミツバと顔を見合せては笑顔になれるその時間が、何よりも嬉しかった。

そしてわたしは、自分でも気付かないうちに、恋をしていた。隣で笑う、何よりも大事な親友と、同じ人に恋をしていたんだ。



『今日稽古が終わったら皆でウチに蕎麦食べにおいでよ』

切らした材料を調達してきてほしい。父にそう頼まれ、買い出し帰りの道すがら近藤道場にいた皆にそう声を掛けた。
腕に寄りを掛けて蕎麦作るから。わたしがそう言うと、『お前蕎麦なんか作れんのか』と、トシと総悟が声をダブらせて言う。『これでも蕎麦屋の娘なんですぅー』と、頬を膨らませて返したら、ミツバが笑った。


「あのさぁ・・・それってわたしが作った蕎麦に対しての文句なワケ?」

すっかり日も暮れた時刻。店内はさほど忙しくもなく、他のお客さんとやり取りする父の横で作った蕎麦を、カウンター席に4つ並べた。
蕎麦を目の前にするなり、トシはいつものように懐からマヨネーズを取り出して、白いとぐろを作る。

「マヨネーズはどんな料理にも合うように出来てんだよ」

「だからってわたしが作った蕎麦にかけないでよ・・・って、ミツバまで!」

トシとのやり取りの最中にミツバを見やれば、七味唐辛子をこれでもかと言うほどに盛り、蕎麦はもうすでに真っ赤で。

なまえちゃんの作ってくれたお蕎麦だもの、美味しいに決まってるけど、これを入れるともっと美味しくなるの」

「まぁそういうこった」

悪びれもせず微笑むミツバに、返す言葉を見つけられずにいると、トシがさらに続ける。

「もういーよ、あんたたち偏食家の意見なんか・・・。総悟はどう?美味しい?」

「まずい」

「・・・・・」

さすがのわたしもこれだけ言われればさすがに落ち込む。
そんなわたしにさらに追い討ちをかけたのは、横でこのやり取りを黙って聞いていた父だった。

「ぶはははは!こんな小娘の作った蕎麦が旨いなんて言われちゃあ俺の立つ瀬がねぇもんなぁ」

「・・・お父さんまで・・・」

「いや、なまえちゃんの作った蕎麦もなかなかのモンだよ。おじさんもいい跡継ぎもったよなぁ」

落ち込むわたしにフォローを入れてくれたのは勲ちゃんだった。
父は勲ちゃんの言葉にも「なぁに、こんなのまだまだヒヨッコよ」、と、返した。「跡継ぎなんざ100年早い」、と。
そう言った父は、この数ヵ月後に他界した。



「今日はごちそうさまな、なまえちゃん」

蕎麦を平らげた皆は、勲ちゃんの掛けた声を合図にガタガタと席を立つ。

「お粗末さまでした」

「美味しかったわ、とっても」

「・・・七味山ほどかけてたくせに」

「ふふふ・・・それじゃあまた」

ミツバは笑うと、皆の後に続き、店の出口へ向かう。
引き戸を開けて、勲ちゃんが、続いて総悟が店の外へ出ていく。
ふいにミツバが振り向いたので、何か忘れものでもあったのかと思いきや、視線はわたしではなく、彼女のすぐ後ろに続くトシに向けられていた。
ミツバがトシに何か話し掛ける。調理場からは出口にいる彼女の声が聞こえない。
トシが何か答えたのか、ミツバは楽しそうに笑う。トシがどんな表情をしているのか、わたしからは見えない。
こんな些細な事でわたしの胸は締め付けられるように痛んだ。

この頃にはもう、ミツバの気持ちにも、トシの気持ちにも気付いていた。
いつ気付いたかはわからないし、2人が互いに惹かれ合ったのがいつ頃なのかはわからない。きっとわたしがいつの間にかトシに惹かれていたように、彼らもいつの間にか惹かれ合っていたのだろう。
だけどわたしは2人の気持ちに気付いていながら、どうすることも出来なかった。
何かを失ってでも自分の気持ちを貫くほど強くもなかったし、2人の幸せを願えるほど優しくもなかった。

ただ、怖かった。いつか2人が遠いところへ行ってしまうのが怖かった。
わたしを置き去りにして、2人揃ってどこかへ行ってしまうことが怖かったの。

お願い。わたしをひとり置いていかないで。
出ていくミツバとトシの背中を見つめ、しんと静まり返った店の調理場から、そう願った。


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