「それじゃあ行ってくるよ」

「うん・・・。身体に気を付けてね、勲ちゃん。・・皆も」

わたしがそう声を掛けると、勲ちゃんはニカッと笑った。

今じゃ真選組だなんて、武州までその名を轟かせている彼らだけれど、あの頃は行き着く先なんて全く見えてなかった。
勇者というか無鉄砲というか・・・彼ら近藤道場の面々が江戸へと旅立つその日、わたしはミツバと並んで皆を見送った。
段々小さくなっていく彼らの背中に向かって、わたしはいつまでも手を振り続けた。手を振りながら、‘一度でいいから振り向いて’と、トシの背中に念を送り続けたけれど、結局彼はただの一度もこちらを振り向くことは無かった。
やがて、遠く離れて見えなくなったトシの背中。トシの背中を見つめながら、きっともう二度と彼と会うことは無いのだろうと、自分の胸の中にあった恋は終わりを悟った。

悲しくなって、だけど涙なんか流せなくて、どうしていいのか分からずに、助けを求めるように縋ったのは、隣に立つミツバだった。
彼女もまた、トシに想いを寄せながらも叶わなかった恋を抱えて、悲しみに身を沈めていると、そう思った。だけど、隣に立つミツバを見れば、彼女は背筋をピンと伸ばし、彼らの行ってしまった道筋をまっすぐ見つめていた。

わたしよりも身体の弱いミツバは、わたしなんかよりもずっと強いのだと、この時気付いた。
そして、トシがわたしじゃなくてミツバを好きになった理由も、この時わかったのだ。
優しさも、そして凛とした強さも持つミツバだからこそ、トシは好きになったんだ。

もう終わりだと悟った筈の恋心が、わたしの胸を締め付ける。


ふわふわ、浮遊


「おばちゃん配達に行くの?」

店に掛かって来た電話を終えた叔母は、店内を忙しなく動きながら花を集めていた。

「そうなのよ。今の電話のお客さん、急ぎらしくて。今からちょっと行ってくるわね。ついでにもう一件配達頼まれてた所にも寄るから少し遅くなるわ」

「配達先は近所なの?」

「歩いて20分くらいってとこかね。もう一件は真選組の所だから、店からそう遠くないわ」

叔母の口から出た言葉に、わたしの心臓は音を起てた。
頭に浮かぶのは他の誰でもなく、トシの顔で。

「・・・その配達、わたしが行ってもいい?」

お世話になっている叔母に代わり、仕事を受け持ちたい。配達に行きたい理由はそんな良いものじゃなかった。胸の奥から何故かやってくる後ろめたさを悟られないよう問う。
親に嘘をついた時のようにドキドキと鳴るわたしの心臓に気付かない叔母は、笑ってくれた。

なまえちゃんが配達行ってくれたら助かるけど・・・でも大丈夫?もうすぐ日も暮れるし」

そう言われ、店内からガラス越しに外を見やれば、賑わうかぶき町は落ちていく太陽に照らされて赤く染まっていた。

「・・大丈夫だよ、わたしだって子供じゃないし。この町にも慣れないとね」

わたしが微笑みながら言うと、叔母は「それじゃあお願いするわ」と、届け物である花と、簡単ではあるけれどとても見易い手描きの地図を手渡してくれた。




ここに来るのはわたしが江戸に来た日・・・ミツバのお墓の前でトシに会って以来だ。
‘真選組屯所’と書かれた堂々とした門の前。門を潜ることが出来ずにいるわたしの鼻先に、抱えた花の優しい香りが届く。
その優しい香りでさえも、緊張を解してはくれない。

緊張なんかする必要なんてない。彼らなら笑ってわたしを迎えてくれるだろう。
だけどわたしは、心から笑えるだろうか?
今、皆と・・・トシと顔を合わせて上手く笑う事が出来るだろうか?


「あの・・・何かご用でしょうか?」

門を潜る決心がつかず、届け物である花を抱えたまま立ち尽くしていると、背後から声を掛けられた。
振り向けば、そこには人の良さそうな中年女性の姿がある。

「あ、あの・・・注文を受けた花を届けに・・・」

「あぁ、お花屋さん!どうもご苦労様」

中年女性は花を受け取ると、わたしがあれだけ潜る事を臆していた門の中へと、足取り軽やかに消えて行った。どうやら女性は真選組で働く女中さんだったらしい。
門の前にひとりぽつんと残されたわたしは、一体何を期待していたんだろうと、そっと苦笑いを漏らしてその場を後にした。


真選組の屯所を後にし、その足でもう一件の配達先へ向かった。
依頼主に花を手渡した頃には、赤く染まっていた街も、もう薄暗くなり始めていた。

「・・・・迷ったかも・・・」

薄暗い路地で、わたしはひとり呟いた。
江戸には詳しくないとはいえ、来た道を戻るだけという至極簡単なことさえも出来ないだなんて、なんとも情けない話だ。
配達に出る前に叔母から手渡された地図は、行きの道は示してくれたのに、逆さに見ても裏返して見ても、帰り道を教えてはくれなかった。
地図を片手に途方に暮れ、道行く人に叔母の店までの道程を尋ねてみようと辺りを見渡すけれど、表通りから外れたこの裏路地に人の姿は無い。姿がなければ探すまでと、さほど広くもない通りの奥まで目を凝らす。
道なりに軒を列ねる通りの数軒先に茶屋があり、その店先に腰掛けが出ている。
足を進め、茶屋の前で立ち止まり、腰掛けをひとり独占する男を見下ろした。
顔の半分近くをアイマスクで覆ってはいるけれど、その髪の色は・・・ミツバと同じ髪の色は見紛うことはない。


「・・・すいません、道に迷ったみたいなんですけど」

「・・そいつぁいけねぇや。この道真っ直ぐ行った所に橋がありやす。そっから飛び降りれば迷いなんざなくなりまさァ」

「総悟くん違うから、人生の迷子じゃないからね、わたし」

腰掛けに寝そべる男の名を口にすれば、気だるそうに真っ赤なアイマスクを外す。
真っ赤な目ではなく、彼自身の目でわたしを見ても驚く様子のない所を見ると、総悟は声だけでわたしだとわかっていたようだ。

「迷子たぁ随分間の抜けたこった」

言いながら、総悟は腹筋の力だけで起き上がる。
彼ひとりが使っていた腰掛けにもう一人分のスペースが出来たので、わたしは総悟の隣に腰を下ろした。

「あんた警察でしょ?善良な一般市民を助けなさいよ」

「善良な一般市民?いい歳こいて迷子な馬鹿女の間違いだろィ」

まったく・・・ああいえばこういうとはよく言ったもんだと、わたしは溜息を零した。

「あんたね・・・真面目に仕事しなさいよ?ミツバだってそう思ってるわ、きっと」

「・・・・・」

ミツバの名前を出した途端大人しくなった総悟を見て、胸が痛んだ。
違うの。傷付けたかったんじゃない。悲しませたかったんじゃないの。

「・・・ミツバ、武州から江戸に出てくる前、楽しみにしてたんだよ。‘そーちゃんが一生懸命頑張ってるところが見れる’って」

わたしがそう言い終わったと同時に、突如電子音が鳴り始めた。
電子音は総悟の隊服のポケットからで、彼は携帯を出すと画面を見やり、無表情のまま再び携帯を元あった場所に押し込んだ。携帯は未だ電子音を発している。

「いいの?電話」

そう問い掛けたところで、携帯は鳴り止んだ。

「生憎俺ァ仕事中でさァ」

「テメーは仕事サボることが仕事か?」

不意に落ちて来た低い声に顔を上げれば、そこには他の誰でもなく、トシが目の前に立っていた。その顔には青筋が浮かび上がっている。


「・・・トシ・・・」

「あれ、土方さん偶然ですねィ」

「偶然じゃねーよ電話思いっきり無視しやがって。見廻りから戻って来ねェと思いやこれだ」

思いもよらぬ人物の登場で、言葉の出ないわたしを余所に、ふたりは話続ける。

「土方さんこそこんなところでサボってねぇで仕事してくだせェ」

「お前だけには言われなくねーよ」

「俺ァ真面目に仕事してらァ。こちらの善良な一般市民さんが迷子だっていうんで道案内してたとこでさァ」

総悟の台詞を耳にして、トシはその目をわたしに向けた。

「・・・お前がいながら何やってんだ」

「ちょ・・・総悟が仕事サボるのはわたしのせいじゃなくない?上司のせいなんじゃない?」

なまえの言う通りでさァ。責任取って切腹しろィ」

「誰のせいだと思ってんだァァァァ!!」

刀の柄に手をかけたトシに、総悟はあからさまな溜息を吐いて立ち上がる。

「土方さん俺と見廻り交代でしたよねィ?こちらの善良な一般市民の方頼みまさァ」

鞘から刀を抜いたトシに背を向けて、総悟はひらひらと片手を振って見せる。彼の背中は夕闇の中に静かに消えていき、わたしとトシは黙ったままでいた。


「・・・・・」

「・・・・・」

「・・・・しかし」

暫く続いた沈黙を、トシが破った。

「お前いい歳こいて迷子かよ」

「・・ふたり揃って同じ事言わないでくれない?」

わたしの台詞が気に食わなかったのか、それともいい歳して迷子なことに呆れたのか、トシは溜息をひとつ吐いて、手にしていた刀を鞘に収めた。

「お前の親戚、花屋だったよな」

「そうだけど・・・」

足を進めるトシの背中に答えを投げる。彼は振り向くこともせず歩き続ける。
‘付いてこい’と、そう示しているのだということがわからない程、わたしはトシと離れてしまった訳じゃない。

「いいよ、トシ。仕事あるんでしょ?わたし一人で帰れるし」

「誰が送るつった。俺の見廻りが同じ方向なだけだ」

ぶっきらぼうな言い方で、トシはちらとわたしを見た。相変わらず不器用な優しさが嬉しくて、だけど、胸が苦しい。

すっかり日の暮れたかぶき町の大通りは、人工的な灯りがそこかしこでキラキラ瞬き、何処かしら現実離れして見えた。
もしかしたら、現実離れして見えるのは慣れない都会の所為じゃなく、今隣を歩いているのが土方十四郎その人だからかもしれない。
ネオンに照らされてはっきり見えるトシの横顔。彼は隊服の内ポケットから煙草を取り出し、慣れた仕草で火を点ける。


「煙草なんて身体に悪いのに・・」

独り言のつもりで呟いた台詞はトシの耳にまで届いたらしく、彼はその目で、睨むようにわたしを見た。

「文句あんのか」

「別に。トシの身体だし。でも煙草いつから吸ってるの?」

「憶えてねーよ、んなもん」

「ふーん。昔は吸ってなかったのに」

呟くように言ったわたしの横で、トシは煙草の煙を勢い良く吐き出した。
武州にいた頃は煙草なんて吸ってなかったし、髪だってこんなにさっぱりしてなかった。顔付きだって、わたしが知ってるトシよりもっと凛々しくなって、大人の男の顔をしている。


「お前いつまでこっちにいんだ?」

ぼんやりとトシの横顔を見ていると、不意に彼の視線がこちらに向くから、わたしは慌てて目を逸らした。

「・・・わたしがいつまでもいちゃ悪い?」

「んなこた言ってねぇよ」

「じゃあ何?」

「近藤さんがなまえが顔見せねぇってうるせぇんだよ。暇があんなら顔見せてやれ」

「・・・うん・・わかった」

本当は、ミツバのお墓参りをしたあの日、すぐに帰るつもりだった。だけど、あの場所でトシと再会してしまった。
武州から出ていくその背中を見送りながら、もう二度と会う事はないだろうと、そう思っていた人に再会してしまったから。


ミツバが死んでしまったね。悲しいね。わたしも悲しいんだよ。一緒に悲しませてよ。
強がりで不器用なあなたは、きっと上手に悲しむことすら出来ないでしょう?そんなあなたが心配だから。
あなたが深く悲しんでることを知ってるから。あなたがミツバをどれほど想っていたか知ってるから。

江戸に留まる理由を並べ立てていれば、わたしは真っ直ぐトシの顔を見れると思った。だけど、胸に巣食う罪悪感は拭えなくて。
それでもわたしは狡いから、トシとこうして肩を並べて歩いて、言葉を交わしていることが嬉しくてしょうがない。
もう終わったと悟った恋心。二度と会うことはないと思った人がわたしの目の前にいる現実に、身体がフワフワしてしまうくらい浮かれている。
馬鹿みたいでしょ?ミツバを想うトシを気遣うふりをしながら、結局わたし自身がトシの傍にいたいだけだなんて。



「ここで大丈夫」

数メートル先に、見慣れた花屋の看板を見つけ、立ち止まる。

「すぐそこだしさ、トシも仕事戻りなよ」

行った行ったと、犬猫を追い払う様な仕草をしてみせると、トシは呆れたように煙と共に息を大きく吐き出した。
じゃあな、と言い、わたしに背を向ける。


「・・・・トシ!」

離れた背中を呼び止めると、訝しげな顔をしながら振り向いた。

「・・・ホントに会いに行ってもいいの?」

夜になっても賑やかなかぶき町の通りで、周りの音に掻き消されてしまうんじゃないかと思うくらい、小さな声だった。

「お前の好きにすりゃいいだろうが。・・・遠慮なんてするタマか」

蚊の鳴くような声でも、彼には届いたらしい。トシはそう言って、踵を返し歩き出した。
彼の吐き出した煙草の煙が風に乗って流れ、わたしの鼻腔を刺激する。
鼻がツンと痛いのは、胸が締め付けられるのは、吸い込んでしまった煙草の煙の所為だっただろうか。
眩しいくらいにネオン輝くかぶき町の通りが、急にぼやけて見えた。


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