それは、まだ彼らが武州にいた頃。ミツバが倒れた事があった。


「勲ちゃん、トシと総悟は?」

わたしはその日、いつものようにふらりと道場を訪れた。けれどそこには言い争うトシと総悟の声も、ミツバの笑い声もなく、しんと静まり返っていた。
ミツバはともかく、門弟である2人の姿が無いなんてと、道場に1人残っていた勲ちゃんに声を掛けたのだ。

なまえちゃんちょうどよかった。今からなまえちゃんとこに行こうと思ってたところだ」

「え・・・?」

「ミツバ殿がな・・・」

ミツバが倒れた。勲ちゃんからそう聞いた時、わたしの頭は真っ白になった。
いつものように稽古を眺めていたミツバは、道場の縁側で倒れたという。
蒸し暑い夏の盛りだったから、体調の悪さに拍車を掛けたのかもしれないと、ミツバの運ばれた病院へ向かう道すがら、勲ちゃんは言った。



「トシ!ミツバは・・・!?」

病室へ案内されたわたしの目に飛び込んだのは、真っ白なベッドに横たわるミツバと、ベッドの横で膝を付き、ミツバの真っ白な手を握る総悟の小さな背中。そして、立ち尽くしたまま、真っ直ぐにミツバを見つめるトシの姿だった。

「トシ!ミツバ殿は!?」

「・・・あぁ、近藤さん・・・。医者の話じゃ命に別状は無いらしい」

「そうか!」

大丈夫だ、総悟。勲ちゃんはそう言って、総悟の頭を撫でた。
わたしはミツバの顔を見やる。
彼女の目は一体いつ開くのだろう。わたしは、不安になった。


「・・・トシ・・ミツバ、大丈夫だよね・・・?」

隣に佇むトシにそう声を掛けたけれど、彼はミツバを見つめたまま、わたしの言葉には答えなかった。


「総悟、ミツバ殿は大丈夫だ。一旦帰ろう」

勲ちゃんの言葉に、総悟は首を横に振るばかりだった。

「トシ、お前は?」

「・・・・・」

勲ちゃんはトシに同じ問い掛けをするも、彼はミツバを見つめたまま何も言わない。
そんな2人の態度を見て、勲ちゃんは諦めたのか、フー、と大きな息を吐いた。

「お前たちがここにいるなら、俺もミツバ殿が目を覚ますまでここにいるぞ」

そう言って、勲ちゃんは総悟の隣にドカッと腰を下ろした。
わたしはトシの隣に佇んだまま、相変わらず瞳を閉じたままのミツバを見つめる。

ねぇミツバ、みんな心配しているよ。早く目を覚まして、いつもみたいに笑ってよ。
心の中で、祈るように呟いた。


あなたが知ってるあたし


カクンと身体が傾いて、はっと我に返る。わたしの目に映るのは、太陽の光が差し込む白い病室と、変わらず瞳を閉じたままのミツバ。壁際に椅子を並べて眠る勲ちゃんと、そんな勲ちゃんにもたれかかって眠る総悟の姿。
視線をゆっくり横へ移動させれば、そこには見慣れた黒い布。布越しに、温もりが伝わる。


「・・・!ごめん、トシ。ちょっとウトウトしちゃって」

見慣れた黒い布はトシの着流しで、わたしは眠気に負けてうつらうつらしてるうち、隣に座るトシの肩に寄りかかってしまっていたらしい。
慌てて身体を正しい位置へと戻す。

「・・・寝てねぇんだろ。無理すんな」

「・・トシこそ」

ミツバが病院へ運ばれてからも彼女は目覚めない。わたしたちは、目を覚まさないミツバから離れる事が出来ずに、病室で一夜を明かした。


「・・・・ミツバ、いつ目が覚めるかな」

「・・・・さぁな」

「さぁなって・・・・冷たいなぁトシは」

「・・・・・・」

静かな病室で一言二言トシと言葉を交わしたけれど、彼は一度としてこちらを見てはくれなかった。
トシの目は、ずっと横たわるミツバに向けられたままだ。


「・・・・わたし、帰る」

「オイ・・・」

「店の手伝いもあるし。それに、皆がミツバの傍にいてくれるから」

トシがいてくれるから。目覚めた時にトシがいれば、ミツバは笑える。
なるべく音を起てないように立ち上がり、静かに病室を抜け出した。通路には病院独特の薬品の匂いが満ちていて、それがいやに鼻に付く。


病院を出たわたしは家に帰らず、その足で近所の神社に向かった。
長く続く石段を上り、境内に着くと手を二回叩いて頭を下げる。そして上ってきた石段を下り、一番下まで着くと方向を変えて再び上る。
荒くなる自分の息遣いを聞きながら、手を叩いて頭を下げる。また石段を降り、そして上る。何回も何回も繰り返してるうちに、上り下りするスピードはどんどん低下していくけれど、それでもわたしは続けた。
わたしは信仰深いわけでもないし、神頼みだなんて頼りないものだって思ってる。そう思いながらも、今わたしに出来ることはこれしかない気がした。

ミツバの目が覚めるまで、彼女の傍にいる選択肢もあった。けれどあの病室で、ミツバだけを見つめるトシの隣にいるのが辛かった。もしミツバがこのままずっと目覚めなかったら、トシはわたしを見てくれるかもしれないって、そんな馬鹿な事を考えた自分が嫌だった。
最低だ、わたし。大切な親友の傍にいる資格なんて、無い。だからわたしはここから願い続ける。
ミツバが目を覚ましますように。また、ミツバの傍で笑える事を許してもらえますように。


時間は過ぎて、いつの間にか夕暮れ時。石段の途中で足を止め、階下を見下ろせば、町も紅く染められている。
もう、何度神社の石段を往復したか解らない。わたしの口から漏れるのはゼェゼェという音だけだったし、膝は悲鳴を上げている。着物は汗を吸い込んで、すっかり重くなってしまった。
けれど頭の中に病室で横たわるミツバの青白い顔が浮かんで、わたしは再び石段を下り始める。
やっとの思いで一番下にたどり着き、振り向いて上を見上げた。神社の社は遥か遠くにある。さすがに、もう無理かもしれない。そんな言葉が脳裏を過ったけれど、足を石段に乗せた。


なまえ!」

低い声で名前を呼ばれ、振り返る。そこには、トシの姿があった。

「・・・・・トシ・・・」

「・・・アイツ、目ェ覚めたぞ」

トシが無表情で言う。
わたしはその言葉を聞いた途端、身体中から力が抜けてしまって、その場に膝を着いた。今になって、疲労感が津波のように押し寄せてくる。
トシはそんなわたしを見て、ため息を吐いた。

「・・・ねぇ・・・なんでここにいるって・・・わかったの?」

「わかってた訳じゃねェよ。お前んち行こうとしてたら石段上り下りしてる妙なヤツがいたから足止めただけだ」

「・・・・あっそ・・・」

「お前病室出てからずっとここにいたのか」

「・・・・だったら・・なに?」

ゼェゼェと漏れる息の合間合間に言葉を交わす。
聴き取りずらいであろうわたしの言葉を、トシは辛抱強く聞いてくれた。


「・・・あー・・・でも・・・」

「・・・・・?」

「・・・よかった・・・ミツバの目が覚めて・・・」

笑って、トシを見上げた。
目が合うと、トシも少し笑った気がしたけど、滴る汗が睫毛の上で揺れて、よく見えなかった。


「・・アイツも幸せモンだよな。お前みたいなヤツがいて」

トシがそう言って、手を差し伸べる。
わたしはその言葉で‘これからもミツバの傍にいていい’と、許された気がした。





江戸にも蝉はいるんたね。わたしがそう言うと、勲ちゃんは「そういやもう蝉の鳴く季節か」と、言った。普段忙しく働く彼らは、季節のふとした変化にも疎くなってしまったのだろうかと思うと、寂しくなる。
花を配達した帰り道に迷子(認めたくはないけれど)になっていた所で、トシに会った日から数日後。これといった用も無いくせに、わたしは真選組屯所を訪れていた。
用が無くても顔を見に行くなんて昔は当たり前だったのに、今はなんだか申し訳ない気持ちになる。けれど勲ちゃんはわたしの顔を見て、嬉しそうに笑ってくれた。


「夏といえばさ、花火だよね」

「武州にいた頃も皆で花火やったよなぁ」

「そうそう。総悟が花火振り回すからトシが怒って、それを見たミツバが笑ったりしてさ」

暗闇の中、花火の光に照らされたミツバの笑顔が蘇る。
皆が江戸に発ってからも、夏が来る度ミツバと2人で「また皆で花火出来たらいいね」と語りあった。
だけど、あの夏はもう二度と来ないのだ。

わたしが通された屯所の客間に、しんみりとした空気が流れる。
勲ちゃんと2人、向かい合わせに座る部屋。夕暮れが迫る街に風が吹いて、開け放した障子の向こうから涼しい風が吹き抜ける。


「そういやもうすぐ花火大会があるんだ」

江戸一番の花火大会だと、勲ちゃんは言った。

「見てみたいな、わたし」

「そぉか!そしたら皆で見に行こう!」

勲ちゃんが笑って言ったので、わたしも笑う。
なんだか昔みたいだね。そう口を開こうとした時、部屋にふっと影が差した。

「近藤さん、俺達はその花火大会の警護に当たるんだ」

中庭を背景に、トシは勲ちゃんとわたしを見下ろして、そう言った。

「おかえりトシ。見回りご苦労さん」

「あぁ」

勲ちゃんと挨拶を交わして、トシは敷居を跨ぐと畳の上に胡坐をかいた。

「花火大会も仕事なんて皆大変だね」

「すまんなぁ・・・せっかくなまえちゃんと一緒に見れると思ったんだが・・・」

わたしの言葉に、勲ちゃんは謝罪の言葉をくれた。
トシは無言で煙草に火を付け、勢いよく煙を吐き出す。

「そうだ!トシ、お前非番のヤツと替わってもらったらどうだ?」

「あぁ?」

「そしたらなまえちゃんも花火大会に行けるだろう!」

それがいい、そうしよう!と声を上げる勲ちゃんに、トシは眉間に皺を寄せた。

「なんで俺なんだよ。近藤さんが行きゃいいだろ」

「いや、俺は局長として警護に当たらなきゃならんからな」

「おもいっきり忘れてたじゃねーか。・・・総悟あたりに行かしゃいいだろ。アイツはいてもいなくても一緒だしな」

行き着く場所のない押し付け合いを見ているのは辛いものがある。

「いいよ2人とも。花火なんていつでも見れるし。それにわたし、店の手伝いもあるしさ」

2人の声に割り込むみ、明るい笑顔を貼りつけて言う。
本当は、みんなで見に行く花火大会に期待してた。だけど、どうやっても昔のように‘みんな’で花火を見ることが出来ない。
ミツバは、もういないのだから。
昔みたいにはしゃぎながら花火を見ても、そこにミツバがいないことに気付かずにはいられない。それでもみんなは明るく振る舞ってくれるだろう。そんなみんなを見たら、わたしはやりきれなくなってしまう。


「じゃあ花火はまたいつかということで!そろそろ店番あるし、わたし帰るね」

また用がなくても来ちゃうかも。気遣わしげな視線を向ける勲ちゃんに、そう声を掛けて真選組の屯所を後にした。





「せっかくなんだから行ってきたら?店のことはいいからさ」

花火大会当日。
さすが江戸一番の花火大会らしく、催しを告知するポスターがかぶき町のあちこちに貼られていた。
伯父伯母の営む花屋にもポスターは貼られていて、それをぼんやり見つめるわたしを、叔母は気遣ってくれたらしい。

「いいのいいの。一緒に行く人もいないしさ」

「武州の友達は?江戸にいるんでしょ?」

「・・・うん。でも、みんな忙しいっていうし」

わたしも店番頑張るからね。そう笑ってはみたけれど、今日は花火大会当日。外を行き交う人々の中にも花火大会を見に行くのだろう、ちらほら浴衣姿が目立ち、花屋の軒先で足を止める人など皆無だ。

もうすぐ太陽も沈み始める。そしたら店を閉める準備をして、終わったらお茶を飲みながら花火の打ち上がる音を聞こう。
少し寂しいけれど、トシも同じ音を聞いているのだと思えばそれだけで幸せな気がする。


「そろそろ店仕舞いしようかね」

伯母がそう呟いたのを合図に、わたしは店の軒先へ出た。樽に入った花を店内にしまうのはわたしの仕事だ。
軒先に並んだ花を次々店内に運び、最後の一つを抱える前に、うんと背を伸ばす。
紅くなり始めた空が綺麗だと思った。


「店仕舞いか?」

「あっ、すみません・・・表の花はしまっちゃいましたけど、店内なら・・・」

不意に掛けられた声に、空に向けて伸ばした腕を慌てて下ろし、接客用の笑顔を作った。
「よかったら店内へどうぞ」と続けたかったのだけど、そこに立っていた人の姿に、声が詰まってしまう。


「トシ!?」

そこには江戸に来てから見た隊服姿ではなく、黒の着流しに身を包み、煙草をくわえたトシが佇んでいた。

「化け物見たみてェな面すんな」

「だって・・・ビックリしたんだもん」

こんなとこで何してるの、今日は花火大会の警護でしょ?わたしがそう問うと、トシはタバコの煙を吐き出して、困ったように眉間に皺を寄せた。

「近藤さんが俺を休みにしたんだよ」

トシの吐き出した煙が風に乗って漂っていく様をぼんやり見ながら、だからなんでここに居るのよ、と思う。
トシがここにいる理由の答えを待って彼の顔を見つめたけれど、トシもまたわたしの顔を見るばかりだった。わたしに答えなんて求められても知る由もないのに。


「何ボケッとしてんだ」

「してないわよ」

「行くんだろ?さっさと支度しやがれ」

何処に?と、そう問い掛けようと開きかけた口からは、言葉を紡ぐことがなかった。
この人は不器用だから、あからさまな優しさなんて表に出さない。
花火大会の当日に、わざわざわたしの目の前に現れた。行き先なんて一つしかないじゃない。

「・・・!待ってて!伯母さんに話してくる!」

わたしは慌てて店内に戻ると、伯母に花火を見に行ってくると告げた。




「うわー、やっぱり江戸って人が多いんだね!」

突如店に現れたトシの後に続き、連れられた花火大会の会場はとても大きな広場で、視線を向けた先はどこも人で溢れていた。
並んだ屋台から漂う匂い。なんだか懐かしいなと思いながら、わたしは感嘆の声を上げる。
そんなわたしを見て、トシがわざとらしく呆れたように吐息を吐くものだから、わたしは彼を睨み返す。


「はぐれんじゃねぇぞ。後が面倒くせぇ」

「はぐれないし」

憎まれ口に憎まれ口を返すやり取りは昔と何ら変わりなくて、会わなかった時間を忘れてしまいそうになる。

太陽が沈み、月が顔を出したかぶき町の広場。行き交う人は波のようだけど、わたしは一歩先を歩く彼を見失わない。見失うことが出来ない。
トシが武州を発ってからの数年、わたしは姿のない彼を忘れる事が出来なかった。今、手を伸ばせば触れられる距離にいる彼を、どうしたら見失うことが出来るんだろう。

・・・その手に触れたい。刀ばかりを握っている、その武骨で不器用なトシの手に触れたい。
トシの手を握りたい衝動に駆られ、自分の手を伸ばそうとしたその瞬間、ドーンという大きな音と共に夜空に大輪の花が咲く。


「始まったみてーだな」

先を歩くトシが呟いて、その足を止める。わたしは彼に倣って同じ夜空を見上げた。

トシの手を握らなくてよかった。次々上がる美しい花火を見ながらそう思った。
もしわたしが手に触れていたら、トシはどんな風に思うだろう。
戸惑う?それとも黙って握り返してくれる?
どんな反応をされても、きっとわたしは傷ついた。
もしも握り返してくれたとしたら、わたしは嬉しく思いながらもミツバへの罪悪感で押し潰されてしまっただろう。


「綺麗だね」

次々上がる花火にはしゃいだふりで、大きな声でそう言った。
わたしの声に、トシはチラリと視線を向ける。

「ガキかてめーは」

トシが少し目を細めた気がして、それが嬉しくて、「ガキじゃないですぅー」と、子供のような返しをしてみせる。
無邪気にはしゃいで、ふとした沈黙にさえ気付かないふりをした。
沈黙が訪れれば、どこかから聞こえてきそうなミツバの穏やかな笑い声。彼女の声がやってこない不自然さをトシに気付かれたくなくて、ミツバの分まで明るく笑う。

トシが、気付きませんように。ミツバのいないことに、どうか気付きませんように。
笑いながら祈ってみても、ミツバが今この瞬間、ここにいないことはどうやったって隠しきれなくて。
わたしと2人でいるのに、どうかミツバを想わないで。酷く狡いことを心の中でそっと祈った。



「ねえ!今の見た!?ハート型の花火だったよね!」

子供の様にはしゃぐわたしを見て、トシはタバコの煙と共に苦笑いを洩らした。

「お前は昔と変わらねェな」

口端を持ち上げて言ったトシに、言葉を返す事が出来なかった。
トシの知ってる昔のわたしは、ミツバの笑顔が大好きな、親友想いの女の子。ミツバの想いを何よりも大切にしたいと、そう願う優しいわたしで。
だけどね、トシ、わたしそんないい子じゃないよ。トシとミツバの気持ちを知ってもなお笑ってはいたけれど、本当は、ミツバが羨ましくてしょうがなかった。
悔しいくらいに羨ましくて、嫉ましくて。それでもミツバやトシの前では笑う狡い子だったの。
それは数年経った今でも変わらない。

死んでしまったミツバへの想いを燻らせているトシ。そんなあなたの中にいるミツバへの羨望と嫉妬が入り交じった気持ち。
ここにはいないミツバに対し、裏切ってしまったという罪悪感を抱えながらも、トシの傍にいれるという喜びを抱く。わたしの中に、こんなドロドロした感情があるだなんて、トシは知らないでしょう?
今トシの目に映るわたしは、夜空に舞い上がる花火みたいに綺麗なのかもしれない。けれどわたし、本当はそんな女じゃないんだよ。


「・・・昔のままなんて・・・そんなことないよ」

夜空に咲く大輪の花に目を向けたまま、そっと呟いた。

「・・・トシは・・・何も知らないじゃない」

今も昔も、トシは本当のわたしなんて知らないでしょう?
そんな思いを乗せて呟いた言葉は次々打ち上がる花火の音に掻き消され、彼の耳に届いたかどうかはわからない。
今はただ、2人並んで夜空に咲く花を見上げるだけだった。


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