入院患者の病室見回りを終え、待機室に続く廊下を歩いていると、向こう側から院長がやってきた。院長は私の存在に気付き、すれ違い様足を止める。
「空野さん、はたけ上忍と食事に行ったそうだね」
朗らかな笑みを浮かべて、院長は言った。どうして院長が知っているのだろう。私は驚きのあまり、声を出すことができない。
「この病院に勤めている人がたまたま君たちと同じ店に居たらしくてね。席は離れていたようだが、君たちふたりの雰囲気は良いものだったと私に教えてくれたんだ」
「そうだったんですか」
雰囲気は良いものだった?
私とはたけカカシがいた店に居合わせたというその人物は、よほど席が離れていたに違いない。
もしあの場に同席者がいたとしたら、私とはたけカカシの雰囲気を『良いものだった』などと報告するはずがないのだから。
「ふたりがうまくいっているようで嬉しいよ」
院長の満足げな笑みに、私は何も返すことができない。
これ以上はたけカカシと関わりたくないです。そう言葉にしてしまえたら楽なのに。
院長と別れ、静かな廊下を歩く。ひっそりと、誰もが息を潜めているような静けさの中にいると、思い出したくもないことを次々と記憶の底から拾い上げてしまう。
はたけカカシとふたりで食事をしたのは、数日前だ。
目の前に並んだ料理も店内の内装も、重苦しい沈黙もありありと甦らせることができる。
『誰にも心を開かない』
はたけカカシは、心を見透かそうとしているかのような底知れない瞳で、私を見つめて言った。それは問い掛けでも不満の類いでもなく、ただ決定事項として口にされた言葉だった。
誰にも心を開かない。私という人間についての、はたけカカシの見解。
彼の言うとおりだ。私は誰にも心を開かない。
誰といても、どこにいても。私は他人に心を開いたことがない。
一定の距離を保ちながら、それなりに人間関係を築く。それが私という人間。
はたけカカシは見抜いたのだ。私という人間について。
私は動揺してしまった。心を見透かす、真っ直ぐな瞳に。
動揺したことをごまかすかのように、苦し紛れに放った「それはあなたも同じでしょう?」という言葉。はたけカカシがその言葉に、少なからず傷付いているような表情を見せたことは意外だった。
彼の心の内側になにがあるのか、私にはわからない。わからなくていいことなのだと思う。
わかっていることはただひとつ。私はこれ以上、はたけカカシと距離を縮めてはならない。大きく乱されてしまわないように。
〇
「空野さん、今日はカカシさんとデートじゃないの?」
仕事を終え更衣室で着替えていると、背後から同僚に声を掛けられた。私と同様、彼女も夜勤明けであるはずなのに、同僚の顔は生き生きしている。
私はいつもと同じ曖昧な微笑みを浮かべた。
「いいえ」
「そっか。カカシさん、任務なの?」
「さあ……私は何も聞いてないので」
それじゃあ、お先に失礼します。着替え終えると同時に別れを告げ、足早に更衣室を後にした。今はたけカカシの名前を聞くことは、私にとって喜ばしいことではない。
誰にも心を開かない。はたけカカシにそう言われた夜から、2週間以上経った。あの夜以来、はたけカカシとは顔を合わせていない。
彼が任務に赴いているのか、それとも里内にいるのか、私は知らない。
できることならこのまま顔を合わすことがなければいい。狭い里の中にいては不可能なことだと理解していても、そう思わずにはいられない。
もうそろそろなのかもしれない。
この場所にも、そう長く留まることはないだろう。木ノ葉の里にやって来たばかりの頃、私は思った。
今までと同じだ。ここも私の居場所ではない。ここは特に、私の居場所ではないのだ。
病院の出口は硝子張りの扉になっている。扉の向こう側は、一番高い位置に登った太陽の光で溢れているようだ。
扉を開けると暖かな空気が一気に流れこんできて、私は少し目を細める。
「ヒバリ」
聞こえてきた低い声。その声を耳にするだけで相手が誰だかわかってしまう。会いたくないと思っていた相手なのに。
声のした方を振り向く。はたけカカシが壁に背を預けた格好で、私を見ている。
「……なんですか」
口から出てきたのは、自分で思っていたよりも低い声だった。獣が威嚇する時のような、低い声。
「ちょっと話したいんだけど、いい?」
はたけカカシの瞳が、真っ直ぐに私を捉えている。私はこの瞳が苦手だ。彼もそれに気付いているのかもしれない。
「……歩きながらでもいいですか?」
「ああ、いいよ」
短い会話を終え、私たちは歩き始める。
行く宛てはない。話すことだって、私にはない。私ははたけカカシが口を開くまで黙ったままでいる。暫しの沈黙。
病院から少し離れたところで、ようやくはたけカカシが口を開いた。
「………悪かったよ」
そう言ったはたけカカシの横顔を見やる。視線に気付いたはたけカカシが私の方へと目を動かすのを感じ、慌てて視線を逸らした。
「……何がですか」
「不躾だったと思う。誰にも心を開かないことを責めてるわけじゃないから」
それをわかってほしかったんだ。はたけカカシはそう続けた。
「……私は別に気にしてません」
「………」
はたけカカシから言葉は返ってこなかった。再び沈黙。
「……ひとつ訊きたいことがある」
「私に?」
「ああ。……木ノ葉の里に来る前に住んでた町の話だけど……」
「………?」
「その町がお前の故郷なの?」
彼の質問が何を意図しているのか、私にはわからない。けれど、この男はきっと無駄な質問などしないだろう。私は慎重に答えなくてはならない。
「いいえ、違います」
「……そう」
「あの町に何か思い入れでも?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどね……」
はたけカカシの視線はどこか遠くへ向けられる。私が、故郷という話題から離れたがっていることを、彼は見抜いているのだろうか。
「……お前のこと、少し調べさせてもらったよ」
ずっと隣を歩いていたはたけカカシが歩みを止めた。私は彼を振り返る。
「……調べた……?」
「ああ」
「……いったいなにを?」
「調べられることは全部」
はたけカカシの顔に感情は浮かんでいない。それが私にとって救いになっているのか、それとも内側に沸いてくる怒りを煽っているのか。私自身にも、もうよくわからない。
「……知らないところでそんなことをされて、私が怒らないとでも?」
「思ったよ。きっと怒るだろうって」
「なら何故そんなくだらないことをしたの?どうしてわざわざ私にそれを告げるの?」
冷静にならなくてはいけない。頭の中で自分自身に言い聞かせる。けれど効果はなく、言葉尻はいくらか強いものになってしまった。
私は焦り、動揺している。きっとはたけカカシは、私の全てを知ってしまっている。その事実が、私をとても不安定なものにしているのだ。
はたけカカシの真っ直ぐな視線に貫かれて、私はうまく身動きできない。
「……ヒバリ」
「………」
「お前は――」
「やめて。何も聞きたくない」
どんな言葉を向けられようと、それらは私にとって全て意味のないことだった。
今の私に必要なのは、沸き上がる怒りをおさめること。それだけで手一杯だ。
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