―――お前のこと、調べさせてもらったよ。
はたけカカシはそう言った。おそらく、私についての全てを。
私にまつわる事柄を調べることで彼が得ようとしたものがなんだったのか、今となっては知るよしもない。
知られてしまった全てに対して、やましいことは何もない。けれど私はあの時、追い詰められたような感覚に陥った。心の中に土足で荒々しく踏み込まれたような感覚。今まで味わったことのない感覚だった。私はいつだって、何者にも心へ踏み込ませたりしなかったから。
潮時かもしれない。そう感じたのは、間違いではなかった。


はたけカカシと会った翌日、私は院長室を訪れた。
厚みのある扉を叩き、院長の声を合図に室内へ足を進める。扉を叩いた人間が私だとわかると、院長は親切な笑みを浮かべた。

「やあ、空野さん。なにか用かね」

親しみの込められた院長の声。私とはたけカカシが結婚を前提とした付き合いをしていると信じて疑わない院長は仲介者として実に誇らしげで、私に対してとても親切に接してくれていた。
院長を落胆させてしまうことは目に見えていたし、申し訳なくも思う。けれど、どうしようもないことなのだ。

「……院長にお話したいことがありまして」

「なにかな」

親切な笑みを絶やすことのない院長。良心がチクリと痛んだ気がしたけれど、気付かぬふりで言葉を続けた。

「はたけカカシさんとの交際についてなんですが」

「うん」

「その……別れたいと思っています」

「えっ!?」

「すみません。院長には色々と気にかけていただいたので、報告させてもらった方がよいかと……」

「……はたけ上忍とは話合ったのかね?」

「いえ、これから。……話合っても私の考えは変わらないと思います」

「取り合えず、はたけ上忍と話合って、それから判断してもいいんじゃないかな。君ひとりで決められることでもないだろう?」

院長は、さすがに狼狽しているように見えた。声がどことなく弱々しい。けれど、私に向ける笑みは変わらず親切なものだ。
私は院長に一礼し、部屋を後にした。



翌日、私は自分の部屋にある荷物をまとめた。それほど量は多くない。お金と、必要最低限の生活用品。衣服だって、数日分あれば事足りる。
もうこの部屋に戻ることもないだろう。2年間という月日を過ごした、飾り気のない部屋。いつまでたっても‘自分の部屋’だとは思えなくて、結局最後の最後まで愛着は湧かなかった。

部屋を出て、真っ直ぐに木ノ葉の正門へ向かう。里へ入るにはそれなりの手続きと検査が必要だけれど、出ていくぶんには非常に楽だ。門の見張りをしている忍に小さく会釈をすれば、それでいい。
事実、門の見張りの忍たちは私を一瞥しただけだった。

門の外から木ノ葉の里を振り返る。もう二度と、ここへくることもない。
今日は昼から夜勤の予定だったから、病院で働く人たちに大きな迷惑を掛けてしまうことになる。
それでも、私は今すぐここを離れたかった。ここは、私の居場所ではないのだから。





隠れ里のない小国にいた私が、この里で生活するようになって知ったこと。それは、忍といういきものが里の人々から信頼され、頼られているということ。
忍同士が互いに信頼しあうのは理解できる。彼らは時に同じ任務をこなすチームメイトなのだから。
では、一般人は?
驚くべきことに、木ノ葉の里に暮らす一般人もまた、忍に対し厚い信頼をよせている。私の目には、そう見えた。

この里で暮らす一般人にとって忍とは、自分たちの生活を支える経済的な主柱といえる存在である。なにしろ里に住まう一般人のほとんどが、仕事上忍と関わっている。患者の多くが忍である木ノ葉病院に勤める私も、そのひとりだ。
病院、商店、武器屋……挙げ出したらきりがない。そのくらい多くの一般人が、忍たちと経済的に持ちつ持たれつ、といった関係を築いている。
里に住まう一般人が忍たちに信頼を寄せるのは、その生活を経済的に支える役を担っているからだろう。私は、そう思っていた。
けれどこの里に住まう一般人の人々は、忍を誇りに思っている。信頼し、尊敬し、誇っているのだ。私にはそれが不思議だった。
里の外で忍たちがいったい何をしているのか、皆は承知だったのだろうか。知ったうえでなお、忍に対して厚い信頼を寄せていたのだろうか。

里に住まう人々が忍に対して寄せる信頼は、私には理解できないもので。
里の人々と同調することのできない私は、結局この里にも馴染むことはできなかったのだ。
今さら木ノ葉の里で過ごした日々を振り返っても、なんの意味もない。あの里にいた頃の私を全て過去にして、新しい場所へゆく。
新しい場所も、私の居場所ではないにしても。



ずいぶん歩いたように思う。けれど、火の国は広大だ。日暮れが近付き、辺りが暗くなり始めた。この時刻まで歩き続けているというのに、私は未だ火の国領内にいる。
体力にはそれなりに自信があるし、日頃体力勝負の仕事をしているから、なまっているはずがない。それでも半日以上歩き続けた体からは、確実に力が失われていく。
暗くなってしまう前に、どこか宿を見つけなければ。けれど山道はまだ暫く続きそうだ。
取り合えず体を少し休めよう。私は手近にあった岩にそっと腰を下ろした。ゴツゴツしていて、座り心地はあまり良くない。ひとつため息を吐いて、空を見上げた。薄い色をした空に、星がひとつ瞬いている。

私はこのまま、どこにいくのだろう。行く宛もなく、帰る場所もない。いつまで繰り返すつもりなのだろうか。
飼い慣らしたはずの孤独感が、背後まで歩みよってくる。
目を閉じると、かつて暮らした町の風景が浮かび上がる。あそこには、もう帰れないのに。

また余計なことを考えてしまった。
閉じたままの瞼に、ぎゅっと力を込める。


ヒバリ

低い声が私の名を呼ぶ。そんなことがあるわけないのに。
幻聴かもしれないと思いながら目を開く。目の前にはたけカカシが佇んでいて、私の心臓が驚きで大きく跳ね上がった。

「……え?……どうして……?」

何故はたけカカシが目の前にいるのか理解できない。困惑する私とは対照的に、はたけカカシはいつもと変わらない、何を考えているのか読めない顔だ。ポケットに両手を突っ込んで、私をじっと見下ろしている。

「いやー……驚いたよ。病院に行ってみたら、ヒバリが来てないって皆慌てて」

事件とか事故に巻き込まれたんじゃないかって、凄い騒ぎになってたよ。はたけカカシは、そう続けた。

「ま、こうして無事見つかったし、安心したよ」

はたけカカシは笑みを浮かべる。

「……どうしてここが?」

思考がうまく追いつかなくて、言葉を発するまでに時間がかかってしまった。

「こう見えてもオレは追跡が得意なんだ」

「……そう……」

この男は忍なのだ。きっと、私には想像もつかないような方法でここまでたどりつくことができたのだろう。

「……これからどこに行くつもり?」

はたけカカシが問い掛ける。

「……決めてない。どこだっていいし、どこでもかまわない」

「……そうか」

はたけカカシには、私を無理にでも里に連れ戻そうとする気はないようだった。
私の意思のままに。彼がそう思っているのだとしたら、どうしてここまで追いかけてきたのだろう。


「……ヒバリ

「………」

ヒバリが自分で思うほど、お前の存在は軽くない」

「……どういう意味?」

「いなくなって、皆が心配してるってこと」

はたけカカシの顔を見上げる。
私の視線に気づいて、はたけカカシは笑った。それは、穏やかな微笑み。

「……取り合えず里に戻ろう。どうするのかは、戻ってから決めればいい」

まっすぐに私を見つめるはたけカカシ。私は何を言うでもなく、小さく頷く。
私の反応を見て、はたけカカシは目を弓なりに細めた。



里に戻ったのは、月と太陽が入れ替わった頃だった。夜通し歩き続けた足はさすがに棒のようになっている。
「どこかで休む?」。暗闇に包まれた狭い道を先導しながら、はたけカカシは時々振り返って、すぐ後ろに付いていた私に声を掛けた。私は首を横に振る。里にたどり着くまでの間、そんなやり取りを何度か繰り返した。
「オレがおぶっていけば早いけど、どうする?」。里に戻ることを決めた時、はたけカカシはそう尋ねた。「いいえ、自分の足で歩きたい」。私がそう答えると、はたけカカシは「そう言うと思った」と言って笑った。


「さて……どうする?」

木ノ葉の正門を潜ったところで、はたけカカシが尋ねる。

「病院に行く。迷惑掛けたことを謝りたいから」

私はその足で病院に向かった。何故か、はたけカカシが後に続く。
病院の受付には同僚が腰を下ろしていた。私の顔を認めるなり、同僚は勢いよく駆け出して、体当たりのごとく私を抱き締めた。

空野さん!良かった無事見付かって!」

凄く心配したのよ。そう言って私の顔を覗き込む同僚の瞳に、うっすらと涙のようなものが浮かんでいた。
迷惑をお掛けしてしまってすみませんでした。私が言うと、同僚は淡い微笑みを浮かべて、ううん、と言った。

「それじゃあオレは行くよ」

そう言ったはたけカカシと目を合わせることができなくて、私は俯き、「ええ」とだけ答える。
彼に「ありがとう」と言うべきなのか、「許していない」と言うべきか。迷う私の内心を見透かしているのか、はたけカカシは少し眉を下げた困ったような笑みを浮かべて、その場を後にした。


「いいなぁ、空野さん」

はたけカカシが出口の向こう側に消えたのと同時、隣に佇む同僚が呟いた。

「カカシさんが病院に来たのが昨日の夕方だったんだけどね、空野さんの行方がわからないって言ったら、『オレが見つけます』ってすぐに病院を出ていって、あなたを連れ戻した」

カカシさんの背中、素敵だったなぁ。まるで夢見る少女のようにとろんとした瞳で、同僚は言った。

「愛されてるのねー、空野さん」

声を弾ませて楽しそうに言う同僚に、どう返せばいいのかわからない。
私は戸惑ったまま、はたけカカシが出ていった扉の向こうをじっと見つめていた。


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